1882年(明治15)ごろ、新聞は大新聞と小新聞に区分されていた。
大新聞は、東京日日、郵便報知、朝野新聞など。売りは論説主体で、4号活字だった。漢字が縦横に使われているが、振り仮名はない。絵も写真もない。
小新聞は五号活字である。小説を載せるし、絵も活用した。漢字にはすべて振り仮名をつけた。
大小の違いは、コンテンツの硬軟の違いでもあった。
昨今、朝日あたりが「ご高説」を垂れているようで高慢ちきだという批評があるが、明治の先達は新聞の論壇に大きな期待を寄せた。
当時は、普通の知識人による読書会が盛ん、輪講が盛ん、談論風発の時代であった。単に情報を知るだけではなく、見識を磨こうとしたのであろう。
紙の新聞の衰退がしばしば指摘されるのだけれど、月1度くらいは全紙これ論説風にしてみたらどんなものか。起死回生のヒントがあるかもしれない。
ご高説風と、本当の高説の違いは、どなた様にもわかるだろうから。