週刊RO通信

今日のCSRを考える

NO.1261

 企業の社会的責任・CSR(Corporate Social Responsibility)を思い出したい。企業は利益追求だけではなく、人権擁護・環境保護・地域貢献などの社会的責任を果たすべしとする経営理念である。

 これは企業が潤沢なおカネを持っているから果たす、ないから果たさないという性質のものではない。何となればこの考え方の根本はデモクラシーに立脚しているからである。デモクラシーに背馳してはいけない。

 2018年度の最低賃金について時給全国平均874円が打ち出された。例によって財界寄り新聞は「生産性向上が第一」論を掲げる。もちろん、圧倒的多数の中小企業の経営が苦しいという事情がある。

 一方、この数字によって8時間労働で月20日間働くとすれば、働く人の月収は13万9,840円、年収では167万8,080円であって、年収200万円見合いの時給1,000には、とても及ばない。

 働く人の最低生活保障費用の算定には、もちろん、いろいろな主張があるが、働く人の最低限度の安定的生活を前提とすれば874円が高いとは言えない。これは理屈を言うならば人権問題である。

 企業の考え方は「ない袖は振れない」というにある。さりとて賃金によって生活を維持し人生を作っていく働く人からすれば、「ない袖」論で片付けられる問題ではない。

 中小企業の経営が苦しいのは、大方の中小企業が大企業体制に組み込まれていて、両者間取引に非対等的慣行がある面を無視できない。つまり、「大企業>中小企業>働く人」という流れで、働く人がもっぱら割を食っている。

 最低賃金制度を支える精神は、賃金を通して働く人の人権を守ろうとするのであるから、まさに企業のCSRとして考えれば、ここに「生産性向上」をぶつける新聞論調は的外れである。

 CSRを再考してみると、営利を目的とする企業が、目的のために何でもありとばかり好き放題しない(させない)という意義を押さえておく必要がある。ブラック企業は有名な! 企業ばかりではない。

 たとえば「生産性向上」論を天の声のごとくに吹聴する新聞などは、すべてを営利優先論にするべしという「思想宣伝」をしているのであるから、CSRに背いている企業だと言うしかない。

 メディア企業はいずれ劣らず「言論および出版、表現の自由」を主張するが、それは社会進歩、すなわちデモクラシーをさらに発展させるという大前提があってのことである。

 「権力>有力者>庶民」の現状からすれば、庶民にしわ寄せされないような立場、すなわち「権力=有力者=庶民」の対等関係を導くように論陣を張るのがメディア企業のCSRというものでなければならない。

 つまり、権力に近い正論と、庶民に近い正論が並立する場合、庶民に近い正論を掲げてこそ、メディアがCSRを果たすと言えるのであって、権力の提灯持ちをすることはCSRに背く企業活動だと、わたしは断ずる。

 企業が、「生き残り」の名目のもとに、非正規社員を増やし、長時間労働を放置し続けていることが、日々に働く人の人生を毀損する方向へ大きな力を発揮している。これは明らかにCSRに背馳している。

 社会は「持てる者」が繁栄することによって持続するのではない。「持てる者」も「持たざる者」も対等である。社会においては後者が圧倒的多数である。圧倒的多数の人生が毀損するような社会の方向は間違っている。

 しっかりした生活基盤を持てない人はアクシデントに襲われると容易に立ち上がれないほどのダメージを受けやすい。産業界は「進め」「勝て」の競争原理に支配されている。ビジネス論理が国民生活を支配している。

 政治は弱い人に光を当てるべきだという同情論がひっそりと継続している一方で、国民が社会保障制度の維持改善を訴えることに対して分不相応だと批判する論調が幅を利かせている。

 社会福祉制度の支出と消費財の私的所有の概念は対立する。社会福祉の諸制度が、どんなに不完全なものに見えようと、資本主義(の自由放任)の精神に対する不動の非難の意義を持つことを忘れたくない。