週刊RO通信

マネジメントなき組織において

NO.1259

 昨日は、「仕事でしたたかに生き残るには」という学習会を開催した。国家公務員歴33年のT氏に問題提起をしてもらった。猛暑のなかで暑苦しい(!)テーマであるが、4時間にわたる学習会から考えたことを紹介する。

 T氏の問題提起の背景は「組織の機能が極限まで低い」組織である。いわく、組織活動の目的が定まらない。理想を追求するどころか、世間から突っ込まれることがないようにするのが最大の行動指針になっている。

 官僚制の病理として古今東西の定説と化しているのは――秘密主義、繁文縟礼、先例踏襲、画一主義、形式主義、法規万能、派閥意識、縄張り根性、役得意識、事大主義――などである。固い表現ではあるが——

 T氏はざっと5年かけて公務員になった。せっかく合格したのに、役所的文化に強い違和感を禁じ得ない。さっさと辞めた仲間もいた。T氏も転職を考えて検討したけれども、転職先が心細い。辞めるのを止めた。

 そこからT型サバイバルを開始した。最大の課題は、官僚制の病理に感染しないことである。これは容易でない。オツムをやられたら、そこに存在する自分はT型ロボットに過ぎない。少し考えただけで怖気が立つ。

 表面は周囲と変わらずに、しかし、常にオツムは自分を失念しないように重々注意しなければいけない。これ、「面従腹背」という。表は服従、内は反抗というわけだが、反抗を悟られてしまったら失敗である。

 カール・ヤスパース(1883~1969)の鋭い指摘だ。「機構は官僚主義によって運営される。その下で先頭に立ちうる者は自己存在を放棄したものである」。そうはなるものか、これ、T型サバイバルの理念である。

 人の振り見てわが振り直せというが、表面的な性行は同化しても、性根は同化しない。そうか、「自分のオツムで考える」ことを身に付ければ能力向上につながる。T氏は、ここで弁証法(正・反・合)をやった。

 労働時間の規制というような概念は全然存在しない。賃金には、残業20時間相当分が付加されているが、実際は青天井である。同期はほとんど残っていない。T氏は、まさにしたたかに生き残った次第である。

 T氏の話を聞いて、わたしが感心したのは、面従腹背を貫いてきたことである。面従腹背といえば『オセロ』のイヤーゴの奸計を思い浮かべるが、T氏の場合は自分の人間性を維持するためである。他に対する奸計ではない。

 四面楚歌、全面的孤立とまで極端ではないとしても、職場の気風が官僚制の病理に蝕まれているとき、非力の個人が周囲から違和感を持たれたら万事休すである。周囲を同化させる力がないのに突っ張るのは匹夫の勇だ。

 次に湧いた想念は、何といっても「権力」の悍ましさである。つくづく思うに、真っ当なマネジメントが存在しない事態において、個人が自分の思索・行動に自信と確信を持つのは大変なエネルギーを必要とする。

 大昔、わたしがいた組合で、春闘の詰め段階にストライキ回避基準を超える回答が出された。賃上げが目的であるのに、結構なことだと言わず、「ストライキしないのか!」と失望の声が高かった。

 その理由は「一発ぶちかましたかった」のである。普段従っている権力というものに対する不満がある。しかし、目の前の上司をドつくことはできない。せめて、ストライキでその鬱憤を晴らしたいというのであった。

 「権力」はきちんとしたマネジメントを必要としないらしい。カフカ(1883~1924)の『城』(未完)は、城に雇われた測量士Kが城へ行こうとするが道が不明だ。何とか道を探そうとやきもきする。権力は何ら不都合がない。

 「わが社はマネジメントが問題なんだねえ」と嘆息するのは個人であって、本来問題であるのは「権力」のはずなのだが、「権力」はいつまでたっても問題のマネジメントを何とかしようと動かないのである。

 T氏の話に対するわたしの結論は――個人的サバイバル技術では問題が解決しないということだ。公務員の世界に限らない。わたしたちが現実だと思っているのは、実は「現象」である。「現象は現実ではない」

 「現実とは、理想に対する」概念である。理想なく、右往左往している事態は、現象を現実と錯覚している。個人的サバイバルではなく、仲間的サバイバルが開発されるとき、わたしたちは現実を変える力を得るはずだ。