週刊RO通信

不合理な現実政治を否定する

NO.1258

 ものの本によれば、古代ギリシャの都市国家は紀元前5世紀に黄金時代であった。当時は、個人の利益と公共の福祉とが調和して、民主主義がいきいきと実践されていた。ただし、奴隷制度の上であるから万民平等ではない。

 そのエートス(ethos)は、「個と公の調和」である。市民各人が自分らしくいきいきと暮らすことが公(社会)を形成するという考え方であり、これがはるか後の世紀にギリシャ精神といわれるものである。

 「個と公の調和」が崩れて、市民各人の生き方としての理想と社会の現実が乖離して修復不可能となったとき、社会は崩壊する。紀元前4世紀、マケドニアに併呑、ローマ帝国の支配下に置かれて古代ギリシャは終わった。

 古代ギリシャの哲学者アナクサゴラス(前500頃~前428頃)は「理性(思想)が世界を支配する」と主張した。東洋の島国は弥生時代である。地中海方面では、すでに理性や思想に気づいていたのである。

 ただ自然に支配されて生きるのではなく、人間精神が世界を支配するべきだという気づきである。人類史上における意識的大革命としての意義がある。哲学の入り口である。哲学が形成されるにはそこから膨大な時間を要した。

 現代の哲学はヘーゲル(1770~1831)に発するという。18~19世紀にかけてヘーゲルが巨大な哲学体系を構築した。

 ヘーゲルの政治思想は、フランス革命(1789)の評価に著された。「およそ憲法においては、(本来平等である人間の)理性にしたがって承認されうるもの以外は、何一つ、妥当なものと認められない」。ヘーゲル流の人権宣言である。平等は民主主義の基盤である。

 長く続いてきた絶対王政・封建社会を突き崩す(フランス革命)ことが、どんなに大事業であったか。政治的抑圧のみならず、信仰心の厚い人々に対して、宗教も政治体制維持のために従属するように働きかけた。自分が自分の主人公であることを意識しないように精神的抑圧が繰り返された。

 だからヘーゲルは、(フランス革命は)「(アナクサゴラスが主張した)理性が精神的現実を支配するべきであるという原理の認識にまで到達した。これは精神の輝かしい曙光であった」と感動的な言葉を残したのである。

 アナクサゴラスの牧歌的な「理性」が、「個と公」の調和を目的意識的に追求する次元にまで高められた。「理性が精神的現実を支配する」ためには、「理性は常に思惟の成果である」のでなければならない。

 朝起きて眠りに就くまで、どっぷり封建社会に閉じ込められている人間が、フランス革命への行動を興すためには、巨大な思索と葛藤が社会に登場していたであろう。かくして、ギリシャ精神が再生したのである。

 客観的社会的現実は不合理極まりなく、混沌としている。現実を絶対とすれば理性は何の力も持たない。いまでもその事情は変わらない。ヘーゲルは「客観的現実は、主体の実現である」と考えた。「世の中あかん」と嘆く人は少なくない。しかし、よくよく考えれば、同時代を生きるすべての主体が、嘆くような世の中を作っているわけだ。

 石ころは現存するが意識的主体ではないし、自分で変化ができない。植物は「ツボミ→花→枯れる」という運動過程を辿るから主体的変化をするが、その変化発展過程を概念として自分で意識しているわけではない。

 人間だけが、自身の発展可能性と、その概念を認識している。人間は、自分を知っている。だから「現実的存在→実存」するのである。ただし、実存とは、ただ、そこに在るだけではない。

 人間の実存とは、人が自分自身の可能性を知り、自由にいきいきと生きるために、理性にしたがって可能性を追求していく運動過程であらねばならない。理性は、自由(な思索)を前提とする。

 「自由は理性をめざし」「理性は自由をめざす」、自由と理性は表裏一体である。だから「自由は主体(人間)の実存そのものである」。かくして、「理性そのものは、ひたすらその実現によってのみ、それが現実化していく過程によってのみ存在する」ことになる。

 「不合理な現実を否定せよ」というのがヘーゲル哲学の核心である。だから、わたしたちは「不合理な現実政治を否定せよ」という結論になる。