週刊RO通信

組合運動の戦略を再構築しよう

NO.1257

 かの「働き方」関連法が6月29日に成立した。自民党政権による悪法がまた1つ増えたというべきである。最大の原因は、組合運動側に、しっかりと対抗する運動の軸足が定まっていなかったと、わたしは危惧する。

 敗戦後の1945年12月、まだ新憲法が制定される前に労働組合法が制定された。憲法に先行した快挙であった。

 46年11月制定の憲法は、第25条「すべて国民は健康で文化的な生活を営む権利を有する」。第27条「すべて国民は勤労の権利を有し、義務を負う。賃金、就業時間、休憩その他の勤労条件に関する基準は法律で之を定める」とされた。労働基準法は47年4月に成立し、同9月から施行された。

 「働かせてやるのだから黙って働け」という封建思想を引き継いだ明治以来の苛酷・劣悪な働かせ方を法律で抑えた。日本国2千年の歴史において画期的な労働者保護の法律が誕生したのである。

 労働組合法成立以来、日本全国で次々に組合が結成された。当時、共通する要求は「大幅賃上げ」「時間短縮」「経営の民主化」「有給休暇制度」である。47年の実働時間は工場で8時間、鉱山で7.5時間となっている。ただし、中小零細企業はそれよりも長い状態だった。

 労働組合法が改悪されたのは49年だ。ここで、例の「36協定」が登場した。その年の実働時間は184時間/月・7.8時間/日である。これが60年には207時間/月・8.55時間/日に延びている。

 55年、鳩山一郎内閣のもとで労働基準法臨時調査会が設置された。

 労働時間関連では、「特殊業務を設定して週60時間を最高限度とする」「休憩を一斉に与える規定を緩和する」「週休制の例外を認める(月2日にする)」「時間外労働割増率を15%に下げる」「年少者の残業を認める(150時間まで)」「女子の残業を増やす」「女子の深夜業を広範にする」などであった。要は「政財官 鉄のトライアングル」の作品であった。

 経営側からすれば画期的な改正案であろうが、働く側からすれば、またぞろ戦前の働き方へ逆流する、まことに悪質な改正案! が用意された。もちろん労働側の意見など聞いたわけではない。

 当時、わが国の輸出は諸外国から「ソーシャル・ダンピング」(劣悪な労働条件・低賃金によって国際価格より断然安い価格で販売する)であるとして、厳しい批判が巻き起こっていた。

 政財官的ご都合主義と、国際的都合を比較衡量した結果、労働基準法を変えてさらに批判を食らうよりも、実質的なし崩しにする。法を改正せず、労働基準法違反を黙認するほうがよろしいと判断して、この案は潰えた。

 実際、当時、中小企業では1日12時間、13時間労働がざらであった。商店やサービス業は労働基準法など、どこ吹く風であった。こんななかで、54年に、あの「近江絹糸」事件が勃発したのである。

 59年以降、ようやく商店街を中心として一斉休日が広がる。これ、大阪松屋町(玩具の問屋街)から始まる。店主の酷い仕打ちに耐えかねた1店員が店主と家族を殺害した事件がきっかけであった。当時の商店街では、月2日の休日程度で、でかい面をしていたのである。

 組合の時間短縮運動の口火を切ったのは、57年、全繊同盟であった。22時までに二交代制を終えるために、実働を7時間45分にせよという要求であった。綿紡組合はストライキを決行し、要求通り妥結した。

 さて、わたしが強調したいのは、経営側は労働基準法制定以来、一貫して改正(経営側の都合に沿う方向へ)路線を戦略としており、経営者が替わっても、その戦略を寸時も忘れずに手を打ってきていることである。

 一方の組合側は、労働基準法の遵守と、さらなる労働者保護のための運動に取り組んでいるとは言えない。今回の一連の流れを見ても、初めから最後まで政財官に振り回されている。組合員は蚊帳の外だ。労働条件の維持・向上という視点だけで考えても、これは決定的にまずい。

 労働基準法制定以来の画期的改正だという論は、働く側からすれば、まったくナンセンスな、というよりも時代逆行の見事な「改悪」である。もちろん、わたしの見解であるが、皆さまにもとくと考えていただきたい。