週刊RO通信

自民党的自浄能力に期待できないとすれば

NO.1251

 いまから50年以上前、入社して、いわば丁稚奉公中のわたしが組合役員選挙に立候補した。定員3人に対して5人が立候補して、なかなかの激戦であった。昔は、昼休みに会社構内で立会演説会などやったのである。

 落選必至との観測が主流であったが、なぜか、わたしは3位ではあったものの2位に肉薄し、次点には大差をつけて当選した。実際、後で応援団の若手連中が落ちて当然と思っていたと胸をなで下ろしたのである。

 仕事は半人前、プライドは人並み以上で、日ごろのうつうつとしていた気分がパーッと晴れた。投票して下さった方々は面白半分だったとしても、青年は、よっしゃ、がんばるぞと決心したのである。

 当時、組合支部副執行委員長の先輩がさりげなく1つの忠告をくださった。いわく、「きみは新米で、たくさんいる組合役員の末席ではあるけれども、組合という権力機構の1人だということを忘れないように」。

 もう1人の先輩からは葉書で激励をいただいた。先輩は少し前、他の事業所へ配置転換されていた。「組織は大きいから1人の力では容易に動かせない。しかし、組織を動かすのは、その微力の1人なのだ。がんばれ」。

 尊敬する先輩方からの言葉を、わたしは忘れたことがない。当時、これらの言葉を深く考えた記憶はないが、その後の自分の考え方を大きく括れば、すべてがその文脈上にあることに気づく。

 なぜなら、ここには――デモクラシーとはいかなるものか――という核心が極めて簡潔に語られているからである。

 昨今の政治に例を取ろう。デモクラシーの憲法においては、政治家や官僚(公務員)は人々のための公僕という建前になっている。政治機構や官僚機構は間違いなく権力機構である。公僕たることを弁えなければ、彼らが駆使する権力は国民を支配し管理することが目的になってしまう。

 先輩は、「皆さんのために」と言いつつ、知らずしらず号令を掛ける快感に魅せられたらあかんぞと忠告されたわけだ。皆さんはいない。「どなた」「こなた」が居られるだけだ。皆さんは有象無象に通じてしまう。

 そもそも、皆ひっくるめて面倒を見るというような芸当は誰にもできない。安倍氏にしても、どなたは森友・こなたは加計ならば面倒見られるが、その他は有象無象扱いして恬として恥じないざまである。

 権力機構の誘惑に憑りつかれてしまうと、見聞きするのは歓迎光臨の人と声だけになる。そうでない奴らは敵だと決め付ける。ここまで来れば最早デモクラシーを語る資格はないし、自己中心主義の権化でしかない。

 自己中心主義の人間が、いちばん好む言葉は「国家・国民のため」である。いずれも抽象概念であって、漠然として掴まえどころがない。要するに、自分が自分のために好き放題やっていることを隠せればよろしいわけだ。

 1年以上にわたって真っ当な議会審議ができないようにしたのは、なんら高尚な理由がない。個人的友情関係に官僚を動員して国の政策をおこなわせるような不細工なことをやれば、「友情」が赤い顔をして恥じ入る。

 知恵者揃いの自民党である。有徳の士も少なくなかろう。しかし、残念ながら堕落しきった領袖に退陣を諫言するだけの有意の士がおられない。日本の政治はいまも19世紀を彷徨っているみたいだ。情けない、恥ずかしい。

 さて、もう1人の先輩の「微力の1人」としての意気地を考えたい。人類がムラを作るようになったのは農耕開始と関係が深いだろう。人々は自分の必要性からムラを形成するようになったと思われる。

 とすれば、当初は「わしがムラ」だという意識であったろう。また、「支配する・支配される」関係もなかったはずだ。やがてムラが大きくなって、管理機構が肥大化して今日に到ったと考えられる。

 そうではあっても、もともとムラ(組織)を作ったのは1人ひとりである。1人ひとりの力が集まってムラの力を作ったのである。微力ではあっても、1人ひとりこそがムラの力である。この原点は変わらぬはずだ。

 自民党ムラが自浄能力を有していないのであれば、日本ムラのそれ以外の人々が浄化作業をやらねばならない。誰もが日本ムラをダメにしたくはないはずである。ダメ政治家がはびこれば亡国に通ずる。これが歴史だ。