週刊RO通信

応援団と観衆——主体の根源

NO.1248

 今年の連合メーデーは4月28日(土)、代々木公園B地区で開催された。わたしが現役時代のようなアジ演説はないし、参加者と交通整理の警官との間のとげとげしい視線もないし、落ち着いた雰囲気である。

 例年参加者はひな壇に向かって立ち並ぶが、今年は広場中央に盆踊り風の櫓が設えてあって、参加者は櫓を囲むように立つ。仲間の思いである「クラシノソコアゲ」を盛り上げようという主催者の狙いであろう。

 実際、この形は会場というものを理屈すれば、従来のひな壇注視型よりも「デモクラチック」なんである。ナチスが暗い縦長箱型会場に聴衆をギュウギュウ詰めして、演説者のみを浮かび上がらせた意図と比べるまでもない。

 盆踊り風という表現は失礼だったかもしれないけれど、4万人(主催者発表)が、櫓を囲んで、街頭渦巻デモならぬ一大盆踊りをやれば、なかなかの圧巻だなあと、わたしは想像したのである。

 直ぐ思い浮かぶ「炭坑節」(福岡県)にせよ、「貝殻節」(鳥取県)にせよ、民謡であるが哀愁を帯びた労働歌というにふさわしい。とはいえ参加者の表情から哀愁を読み取ることはできなかった。

 もちろん、軍歌メロディの「起て、万国の労働者、轟きわたるメーデーの」という歌詞も似つかわしくはない。なにしろこちらはひな壇型メーデー全盛時代の「労働遺物」にちがいない。

 妄念、いや想念を逞しくして、これが4万人のグループ・ワーク的な「対話」でも面白い。あるテーマ、たとえば「わたしにとって仕事とは何か」、あるいは「わたしの時間意識」でもよろしい。

 実際のところ、日々の下積み仕事の喜怒哀楽を考えたこともないような与党政治家が振り回す「働き方改革」が、参加者の気持ちにフィットしているとは到底考えられない。連合・神津会長の主張はもっともである。

 先の衆議院議員選挙でウルトラ・ドボンを演じた都知事・小池氏はお得意の「(東京都では)ワーク・ライフ・バランスではなくライフ・ワーク・バランスと呼んでおります」も、ごもっともだ。

 野次が飛ぶのは、わたしらの時代には当然だったが、昨今(ゼロではないが)ほとんど聞かない。共感にせよ、反感にせよ、参加者1人ひとりがテーマに対する思いを抱えていれば、反応があっても不思議ではない。

 その点、議会では大方の顰蹙を買う野次が多い。品性下劣な野次が少なくないのが遺憾であるが、野次を飛ばす議員は、それなりに思いを抱えているのであろうから、そこはとりあえず認めよう。

 日差しが照りつける。なかなか暑いのである。愚痴もぼやきも、野次も発さず、淡々と議事進行に協力される参加者の行儀のよさに、ヤンチャ時代のわたしは脱帽する。

 ハッとした。「クラシノソコアゲ応援団」というネーミングについてである。すでに以前から使われているのに、わたしは、なにやら長ったらしいと思っただけで意味を考えていなかった。

 応援団とは、選手やチームを組織として応援する人の集団である。では、選手は誰なのか? チームはどこにいるのか? 常識的には、クラシノソコアゲ応援団を名乗っているのは主催者だから、チームは連合だろうか?

 しかし、連合はクラシノソコアゲを推進する主体であるから、応援団というのは、考えてみればちょいと奇妙である。クラシノソコアゲの対象は労働者、つまり参加者であるから、連合が参加者を応援するのであろうか?

 ところで参加者は自分がクラシノソコアゲの主体者で、連合に応援されているのだと考えているだろうか? 否、おそらく参加者は自分たちが応援団だと思っているのではなかろうか。

 すなわち、それは議会で自分たちの意思に沿った活動をする政治家だろうか。しかし、応援するべき政治家は誰もスピーチをしなかった。議事進行に協力したらしい。阿吽の呼吸で大丈夫というのであろうが——

 連合の力は畢竟傘下組合員の力である。と考えれば、主体は参加者であり、連合であり、両者は一体でなければならない。選手・チームが見えない応援団という位置づけ! に組合運動のもやもやが表現されているみたいだ。