週刊RO通信

橋になっている人々に感謝

NO.1247

 他者に対する軽蔑や敵意によっては、現実に存在する軽蔑や敵意を解消することができない。軽蔑や敵意というものは、それらが蔓延する事態によって人々と社会が病んでいる事実を示している。

 古代ギリシャの人々は、自分が生きている世界や社会自体が、なんら喜ばしい価値を与えてくれないものだと気づいた。だから、彼らは神々を創造したのであるが、この神々ときたら人間に大いなる苦悩を与える存在だった。

 そこで生まれたギリシャ悲劇の数々は、現実がいかに悲惨・酷薄であろうとも、人間として――決然と生き抜く――ことを掲げて称賛したのであり、これこそが「悲劇的精神の本質」と呼ばれるのである。

 いちばんよいことは生まれなかったことだ。もし、生まれてしまったならば一刻も早く死ぬことだ。という存在よりも無を希求するようなペシミズムから、恐怖と苦悩と対峙して生きることへ大転回を果たした。

 存在自体に意味がないのであれば、わたしが意味を作るのだ。世界が無であっても、わたしが存在するのだから、わたしが生きたいように生きてやろうじゃないか。わたしが、ギリシャ精神から学んだのはこれである。

 たまたまゴビ沙漠に佇んだとき、依拠すべきものは、わたしが人間であるという事実だけだと思った。驚くべし、そこにはいろんな小動物が肩肘張らず? に生きているじゃないか。わたしだって——

 この2月から、わたしは「100人・100時間インタビュー」の旅をしている。そこにはさまざまの舞台がある。日常生活ともいう。それぞれの主人公がさまざまの演技をおこなっている。

 それが――悲劇なのか、喜劇なのか――という規定をするような似非評論家の立場はとらない。突っ張って虚栄の肩肘張っている人には、いまだお目にかからない。これ、記録者としての愉快である。

 役者は舞台を終えると日常の自分に戻る。わたしが出会った方々は日常が舞台だから、ずっと、絶え間なくおのおのの「わたし」を演じておられる。演技に手抜きはない。自然体の演技であるから、まさに名優である。

 自作自演だから、役者諸兄姉は作家でもある。魚を逃した釣り師と作家は嘘をついてもよろしい。逃した魚は大きいか小さいか真偽のほどは不明だ。作家は嘘を書くのであるが、嘘を通じて「真実」を描きだすはずである。

 自作自演の作家たちは嘘を書くのではなく、現実を生きつつ事実を書いている。人生に枠組み的正解がなく、百人百様の人生がそれぞれ真実であるわけだから、記録者は愉快とはいうけれども、とても重たいのである。

 いわゆる昔の人が「昔はよくやった」として、「それに比べていまは」みたいな発言をするが、これは全面的に! 訂正・撤回されるべきだとわたしは思う。結晶された過去の虚像と、ご都合的条件で比較されている。

 わたしは1971年に意識調査をして、当時の働く中高年像(40歳以上59歳まで)を「つつましく健気な(中高年)」と表現した。今回、30代から59歳の方々にも、この表現はそのまま当てはまる。

 さまざまの地域・職場で社会を担っている方々の特性は、この50年来、脈々営々とつながれてきている。これを以て日本的庶民の特性と決めつけるのは統計的には踏み込みすぎだが、わたしの感性には極めてぴったりである。

 当然ながら、人生の役者諸兄姉の演技がメディアを賑わすことはない。当たり前過ぎてニュースにならない。その通り。しかし、わが社会は、「つつましく健気な」方々によって依然として支えられている。

 お1人ひとりの人生が、儚い、束の間のものだとしても、わが社会をこの50年間支えてきた柱がそれだと考えれば、偉大である。ハイソ? 諸君が華々しく毒々しく報道を飾るが、その真実は徒花以外の何物でもない。

 虚栄の人が「全容を明らかにして膿を出し切る」と見栄を切った。膿を出し切るためには「儂」を出し切らねばならない。ということすらわからない。つつましくも健気でもない大根役者の芝居は見飽きた。

 ニーチェ(1844~1900)は「ツァラトゥストラ」に語らせた。いわく「人間の偉大は自己目的ではなく、橋であることだ」。わたしは橋になっている方々に深甚な感謝を捧げたいし、自分も努力して近づきたい。