週刊RO通信

官僚的「働き方改革」の愚

NO.1244

 「社説なんか絶対に読まない」と公言なさる知識人が少なくない。3全国紙の社説を30年にわたって読み続けてきたアホな筆者ではあるが、その気持ちはよくわかる。なるほど、と膝を打つようなものにはお目にかからない。

 ところで、「新聞は努めて読まないようにしている」という麻生氏の発言には笑った。元々、耳学問と漫画の人だと自分で語っていた。批判と理屈が多い新聞なんかより、耳障りのよいものだけ選ぶのが得意技なのだ。

 さらに、お勤め人諸氏もあまりお読みにならないらしい。もっとも、こちらは努めて読みたいのだけれど、最大の原因は時間がないことにありそうだ。かくして、いわゆる「働き方改革」法案への関心は極めて希薄である。

 ただし、自分や仲間の「働き方」についての関心は極めて高い。つまり、この事情だけで、「働き方改革」法案なるものが、働く方々の「働き方」の琴線に触れるようなものではないことが露見しているわけだ。

 そもそも「働き方改革」法案への動きは、すなわち労働基準法改悪への働き方は敗戦後から一貫して財界が主導してきた。雇用と労働時間を経営の自由裁量にしたいというのが、その柱である。

 最近では、政権復帰直後に安倍氏が「世界一、企業が活躍しやすい国をめざす」と公言した。冷や飯時代にほとほと懲りて、まずは政財界の結託を固め直そうとしたのである。

 もう1つは、官僚体制へのアプローチだ。民主党が単純にも「官僚と対決」と目されるような戦略で大失敗した事実を、安倍氏らは見ているし、「政財官の鉄のトライアングル」修復を狙ったのは必然だった。

 官邸が官僚の人事権を一手掌握して、誰がご主人さまか再教育を施そうというわけだ。憲法では、官僚諸君のご主人さまは「国民」なのであるが、そのように正しい解釈をしてもらったのでは、自民党は困るのである。

 なんとなれば、自民党には「基本的人権を唱えるような奴は左翼」であると広言する政治家が少なくない。基本的人権にアレルギーを示す自民党だから、正しくはデモクラシーの政党ではない。反「日本国憲法」なのである。

 前川氏は文科次官辞任の際、自分は「国民の公僕」たろうとしてきたと語った。一方、佐川氏は嘘をついても、真実を隠しても、「忠臣」たろうとする。こちらのご主人さまは、国民にあらず、安倍氏である。

 このように戯画化してみると、政権復帰後の安倍氏らが官僚再教育について、かなりの成功を収めたといえよう。官僚に対する最大の武器が「アメとムチ」であることも、この間の一連の動きで非常によくわかった。

 これはどこかで見た人の支配方法である。然り、敗戦までのお家第一主義と全く等しい。主家のご主人さまの威光は絶対である。番頭・丁稚、その他諸々がご主人さまに意見するとか、注文つけるなどは身分不相応である。

 すなわち労使関係的に表現すると、雇用者は「働かせてやる」のであり、被雇用者は「働かせていただく」のである。労使対等論が存在しなかったのが敗戦までの封建的労使関係である。

 さて、役人(官僚)的世界の「働き方」とは、いかなるものか? なんといっても第一は「命令と規則」が絶対である。率先・創意工夫・行動の自由のようなものはない。カチンカチンのマニュアル中心主義である。

 第二に、役人たる者は、自分に与えられたことだけをやる。全体のごく一部を黙々推進するのであって、「なぜ」それをやるのかなどと疑問を抱いてはいけない。かくして、彼らは目的も範囲もわからぬままに働くのである。

 第三に、役人が相手にするのは書類であり、書類の扱いこそが絶対である。すなわち書類の体裁が妥当であればよろしい。そこで、外部から書類の正当性にいちゃもんがつく恐れがあれば、改ざんするとか、廃棄してしまう。

 さてさて、お勤め人諸氏がもっとも嫌うのは「指示待ち」族である。上が指示したことしかやらず、指示しなければ何もしない。当然ながら、率先・創意工夫・行動の自由は無関係な「働き方」である。

 「働き方」に自負と責任を持つお勤め人は、マニュアルを好まない。いかに伸び伸び、しなやかに働くか、これが最大の課題である。政財界の注文に基づく官僚的「働き方改革」なんてものは根腐れ病だと言うしかない。