週刊RO通信

誇り高き官僚制の凋落か!

NO.1243

 最近亡くなった尊敬する先輩は、折に触れて日本の官僚の優秀さを指摘されていた。要するに、頭脳明晰にして的確な仕事をするというのが、その核心であった。一方、大方の政治家に対しては辛辣な批判をされていた。

 これ、先輩に限らない。わたしより1世代先輩の世代のかなり一般的な傾向であった。政治家は選挙で当選することに全精力を傾注するけれども、政治的見識・知識、能力全般についてはあまり信頼できないという。

 一方、官僚の政治的見識・知識、能力を高く買っている人が少なくなかった。自民党の長期政権が継続した理由は、かかる優秀な官僚が支えているからであって、決して自民党議員諸君を評価していないのである。

 逆にいえば、それゆえ、政治家が少々のバカな事件騒動を引き起こしても官僚とその制度が確然としていれば、マツリゴトは収まるべきところに収まるであろうという安心感が支配的であった。

 わたしもその一端を知った体験がある。1980年に『老後悠々』(日経新聞社)を上梓した。これは三菱電機労働組合における中高年層対策としてのライフプランセミナー開発・実践について述べたものだ。

 ときの労働事務次官が本社へ電話をされて、著者に会いたいと言われたらしい。人事部からご大層な電話を受けてわたしは何のことやらさっぱりわからないので、なぜ直接組合へ電話しないのかと文句を言った。

 ややあって面談日程が本社ペースで決定した。本社隣の三菱重工ビルの10階だったと思うが、そこには、なんでも三菱グループの偉い方々しか使えない料亭があった。これまた、わたしは初めて知った。

 組合中央執行委員(ヒラ)ではあるが、職場のランクが平社員のわたしのかばん持ちに取締役が1人就かれた。「何で、付き添われるのですか?」。「君が何を言うか気がかりだからですよ」。

 「そんなもん、横におられたってわたしが何を喋るかわかりませんよ」というわけで大笑いした。事務次官は高齢化社会対策に先鞭をつけたわれわれの動きに注目されて、戦略的見解をお尋ねしたいと丁重に口火を切られた。

 事務次官も秘書が1人、わたしもかばん持ちが1人。4人で卓を囲んでお昼からビールまでいただき、35歳のわたしは気楽に日頃の存念をお話した。ざっと2時間、歓談弾んだ。握手までしてお別れしたのである。

 取締役は「あんたもたいした度胸ですな」と評価(?)されたが、何しろ最後までわたしは官僚制度トップの事務次官という存在の「凄さ」がわからず仕舞なのだから、いま思えばまことに頓馬な話である。

 さて、明治「ご一新」の本質は市民革命ではない。近代市民革命は個人の自由・平等が主張され、それの獲得をめざしたのである。ご一新は、いわば武士階級内部のクーデターに過ぎない。

 ものの本によれば、明治初期の官僚は、中央で80%超・地方で70%超が旧士族である。もちろん無理もない。士族以外の大方は真っ当な勉強などしていないのであるから直ちに官僚に就けるわけがない。

 もともと士族以外は切り捨てご免の木端である。士農工商を排して四民平等の御代になったといっても、長く特権階級意識に染まった側と、それに全面的に支配されてきた側のいずれも、容易に意識変革できるものではない。

 いわく「官尊民卑」の気風が固まっていくのである。官においては事大主義の気風が支配する。これまた封建制のしたたかな遺風である。大正・昭和ときて戦時体制へ一目散。全体主義・権威主義が日本全体を覆った。

 この間、個人主義は徹底的に抑圧され、天皇への忠誠を絶対とする国粋主義が飛んだり跳ねたりしたのである。1945年8月敗戦を迎え、46年の日本国憲法発布を以て、ようやくデモクラシーの時代を迎えた。

 官僚制度はそのまま残った。シャッポは天皇から国民となった。天皇の藩屏から国民の公僕への180度の転換である。よくも悪くも官僚は日本国のための立派な政治をおこなうという気概を持っていたはずであった。

 官僚制度のトップ級に上り詰めた人が議会の喚問に登場する。さすが日本を支えてきた官僚の1人であるという評価になるか。はたまた、官僚全体の信用失墜を加速されるか。日本の官僚制度はどこへ行くか?!