週刊RO通信

政権の末期症状と、その引き金

NO.1242

 政権末期というものは、それまでがいかに基盤強固に見えていたとしても、ある日突然瓦解する。権力というものは、もともと個人的実力を大幅に超過させ油断させるから、何が起こっても不思議ではない。

 さて、1980年代までは――「日米同盟」は軍事同盟である。問題解決に関して戦争を放棄した憲法を掲げているのだから、軍事同盟を押し立てる外交方針は正しくない――という正論が主流であった。

 これが鈴木善幸内閣(1980~82)辺りからおかしくなり、中曽根康弘内閣(1982~87)に至るや「日本列島不沈空母」発言を代表とする対米従属路線が極めて色濃くなった。その後表面的には波静かみたいだったが——

 1990年8月に開始した湾岸戦争で、翌1月から多国籍軍を引っ張ったアメリカが日本の(資金)協力が「too little too late」であるとして猛烈な批判・圧力をかけてきて、橋本龍太郎内閣は130億ドルを供出した。

 これが自民党幹部諸君には相当なトラウマとなった感がある。小泉純一郎内閣(2001~06)は、自民党をぶっ潰すと威勢がよかったものの、一方で対米ゴマスリ路線一直線の様相を呈した。その結果——

 小泉氏はありがたくもかたじけなくも、米国から「sergeant(軍曹)」なる尊称(?)を呈されるような次第であった。いわく日米蜜月、日本外交はほぼアメリカ外交の尻尾的様相へと著しく傾斜した。

 人間は習慣の生き物である。日常的にアメリカとの摩擦がなければ「すべてはうまくいっている」という気風になる。かくして日米同盟は政府与党的「国是」(!)の様相を呈し、メディアは1つの疑問も呈さない。

 もちろん、「弱きを挫き強きを助ける」ところの安倍内閣が自主独立の日本外交を目標とするわけがない。かくして中国からは「中米関係がうまくいけば対日外交は問題ない」と足許を見透かされる次第である。

 1971年7月のニクソン訪中後、田中角栄内閣(1972~74)は気合を入れて日中国交回復へ突っ走った。日中国交回復は疑いなく大きな外交成果であり、外交史に大きな足跡を残した。

 さて、トランプ氏が金正恩氏との会談を約束したのは、現段階では実現するか否か、海のものとも山のものとも判断しがたいけれども、日本政府にとってはニクソン訪中を巡る衝撃と似ている面がある。

 少なくとも、客観的には日本が置いてけぼりを食らったようであるし、トランプ氏へのお追従効果が霞んでしまったようにも見える。表面的態度はともかくとして外交中枢は疑心暗鬼と焦りの渦中にあるだろう。

 意識しているのか、していないのかはわからないが、メディアがほとんど「大本営発表」的報道に終始しているのを見れば、メディアもまた右往左往しているだけである。さしたる見識が提供されていない。

 単純かつ声高に対北圧力外交を唱え続けてきただけであるから、どう見ても、この段階における日本政府の外交は、関係国の情勢分析、とりわけ「蜜月」関係のアメリカ外交すらまるで解読できていないように見える。

 いうならば、政府外交当局は大きな「外交政策の転換」を余儀なくされているという見方ができる。そこで疑問は――いったい、安倍氏はじめ内閣、外務省にそのような緊張感があるのだろうか?

 1939年8月23日、ヒトラーのドイツが突如としてソ連と「独ソ不可侵条約」を締結した。ときの首班は平沼騏一郎(1867~1952)である。彼は右翼団体の国本社を創設、巨大な勢力を誇示して国論を牛耳っていた。

 その5日後、28日に平沼内閣は総辞職したのである。いわく――欧州の天地は複雑怪奇な新情勢を生じたので、わがほうはこれに鑑み従来準備してきた政策を打ち切り、さらに別途の政策樹立を必要とする。――

 誰が見ても、国内的には安倍氏はスキャンダル塗れである。この1年間の国会審議は、権力を悪用したつまみ食いを解明しようとする動きと、それを妨害する動きのせめぎ合いであった。

 そこで、「ロケットが飛んでくる」懸念が安倍氏を支える柱であったと考えるならば、まさに安倍内閣の進退窮まった。安倍氏もよく似ている先輩平沼氏の選択に見習うときだと、わたしは考えるのである。