週刊RO通信

働き方改革を論ずる資格?

NO.1239

 わが国会的いわゆる「働き方改革」法案審議について、わたしはきっぱりと廃案にするのがよろしいと考える。はっきり言って時間の無駄である。逆にいえば時間をかけて審議するほどの内容に非ず——とわたしは断言する。

 働き方というものを本気で考えたのか。「改革」という大げさな看板を掲げたけれども、まるで中身がない。ほとんど現状の追認というべきで、「改革」の看板が白々しい。

 そもそもです、働き方というならば、少なくとも労働組合が組織されているところの働く人くらいは、本法案の審議に強い関心を抱くのが当然である。しかし、そのような気風・雰囲気というものは皆無である。

 失礼を顧みず書く。政治家という職業は経済活動に直接貢献するようなものではない。政治家諸君が、果たして「働く人向けの働き方」を論ずるに足るほどの働き方のエキスパート足りうるであろうか。疑問だ。

 たとえばこんなエピソードがある。他でもない、新渡戸稲造(1862~1933)が極めて含蓄の深い指摘をしている。その要旨を記す。いわく、

 ――農業を改良するには農商務大臣にならねばならぬと思う人がいる。明治14年(1881)に農商務省ができて以来、幾人も大臣が登場したが、日本農業がどれだけ改良されたか、ほとんど見えない――

 農業に限らない。1つひとつの仕事を改良・改善することは、目標を掲げたとしても、そうそう安直に実現しない。こんな事情は、日々職場で具体的仕事に取り組んでいる人にすればまったくの常識である。

 働き方もまた百人百様の適性・能力、客観的事情があるのだから、「働き方改革」と大風呂敷を広げることに意味があるかどうか。わたしに言わせれば、その程度の謙虚さや真面目さすら持ち合わせてないように感じられる。

 そもそも、政治家なる人々が、政治なる仕事の本願とそれに取り組む政治家の職業能力(プロフェッショナル)に関して、いかなる理解をし、見識・知識、さらにはそのための行動力を日々切磋琢磨しておられるか?

 わたしの見るところ、政治家諸君の大方は(すなわち陣笠)、選挙に当選することこそが最大の目的・目標であって、政治家に「就職」することしかほとんど眼中にないのではなかろうか。

 これ、決して単なる憎まれ口ではない。なんとなれば、わが国は法的には立派なデモクラシー国家であるが、政府・与党に君臨する総理・総裁たる人物が率先して法律を無視して、官僚を番頭・丁稚のごとくに使っている。

 与党の議員諸君が政治家たる矜持と誇りを確保して、プロフェッショナル政治家道を驀進しているのであれば、自分たちの領袖が政治家道を踏み外しているのだから、諫言するなり、改めなければ辞めさせるなり、政党=プロフェッショナル政治家の団体の1人として活動せねばならない。

 こんなことは庶民としては社会通念そのものである。ところが、そうした画然たる行動が表面化しないのである。

 とすれば、与党議員諸君は、プロフェッショナル政治家でないか、単に政治家職業にしがみつくだけで、正しい目的を知らず、ために薄汚れた性根に支配された、未熟ないしは見当違いの政治的仕事をしている次第である。

 はるか昔から「永田町の常識は社会常識と異なる」という言葉がある。なるほど天下国家を論じ、社会常識から超然としていることに全然意義がないとは、わたしは言わない。それも1つの持ち味だ。

 しかし、論ずる天下国家論が頓珍漢なものだから、まして真っ当な社会常識を無視しているのであるから、当然ながら、政府与党諸君が推進しようとする「働き方改革」に本来の迫力が見られないのは必然なのである。

 簡単で分かりやすい「働き方・原理原則」を1つだけ指摘しておこう。それはなにか。いわく――常にお客さまを意識して尽くす――ことである。デモクラシーの政治家諸君としては、「パブリック・サーバント(公僕)」に徹することに他ならない。

 結論である。公僕たる政治家の立場を弁えない諸君には、お客さま(国民)の「働き方」の高説を垂れるだけの資格がございません。なお、官僚諸君におかれても、ご主人は安倍氏一派ではないことを十分に認識してほしい。