週刊RO通信

最後の詰めは庶民の政治感覚

NO.1236

 庶民にとって政治といえば、別世界の出来事みたいである。なおかつ、ろくな話がない。考えるだけでも無駄な骨折りだ、と考える人が少なくない。しかし、案外手近で、庶民が影響力を発揮できる対象でもある。

 時代の政治を構成するのは、政治家、学者専門家やメディアの専売特許ではない。大きく括れば、これらの関係者は発生する政治的事実によって生業を得ているのに過ぎない。これらを特別視する必要はさらさらない。

 たとえば、ある政治的事実がメディアによって報道される。それには当然ながら原因があるが、政治的事実が報道され、人々がそれを知り反応する結果として、なんらかの効果が生み出される。新たな政治的事実が作られる。

 政治的事実を作り出した政治家は、メディアによって報道されたくないことが多いかも知れない。なぜなら、概して多くの政治的事実は歓迎されるよりも、鵜の目鷹の目で批判の対象にされやすいからである。

 もちろん政治家が長く政治家を続けたければ、人々の人気をかたじけなくする必要があるから、メディアでの露出度が大きいこと自体はありがたいはずである。報道が肯定的か否定的か、それが問題である。

 つまり、政治を生業としていない人々が政治を生業とする人々の帰趨を握っている。間接的ではあるが、庶民が作り出す、政治的事実に対する是々非々の「気風・雰囲気」というものが大きな力を持っている。

 人間は清廉潔白な存在ではない。ふとしたことから過ちを起こす。横綱谷風が病の母親を抱え極貧に苦しむ親孝行の佐野山を救うために八百長をやったとする「落語」は、八百長ではあるが美談として庶民的人気があった。

 しかし、今様理屈をいえば、佐野山の苦境に惻隠の情を起こしたことは理解できるが、フェアプレイ精神の土俵を見に来た観客を欺いた事実は覆い隠せない。これが是なら、体調不振で苦境の力士に星を貸すのも美談的だ。

 前者は惻隠の情を起こした谷風に、世間が惻隠の情を起こして美談となる。後者は、星を貸した力士は惻隠の情を起こしたとしても批判される。事実に対する世間の反応、気風は蓋を開けて見なければわからない。

 森友問題は、次々に新しい証拠が発掘されて、本件の脚本(国有地をただ同然で売却する)を書いたのが財務省の官僚らしいことがわかる。それにしても、官僚諸君が森友学園に深い思い入れを有していたとは考えにくい。

 安倍氏や昭恵氏が財務省官僚に直接声を掛けていないというのが、安倍氏の最後の拠り所のようだが、昭恵氏付きの職員が財務省側へ問い合わせした(2015.11)事実はすでに公表されている。

 財務省側としては、昭恵氏が森友小学校の名誉校長に就任(2015.9~17.2)していることを知っていた。森友の財務状況が厳しいことも認識している財務省が大サービスしたのは、安倍氏・昭恵氏を意識したからであろう。

 当時の理財局長・佐川宣寿氏は、森友との「交渉記録は廃却した」「売却価格は適正」「価格交渉はしていない」と、野党議員の質問に対して門前払い、木で鼻を括るような答弁をした。これらは全くの嘘であった。しかもまだ内部資料があると、いまの太田充理財局長は答弁した。風向きが変わった。

 この問題は、豊中市議の木村真氏が、余りに売却価格が安いことに疑問を抱き、やがて国会議員段階での調査活動が進められた。

 財務省が安倍氏や昭恵氏に精いっぱい尽くそうとした筋書きは見えるが、森友の時代錯誤的教育方針に痛く共感したからだとは考えにくい。そもそも森友に対して大サービスしてあげる「国家的」理由はまったくない。

 本件発生して以来の野党の調査活動は並々ならぬ苦心があったと思われる。たまたま籠池氏が、証拠隠匿・隠滅ではなく、おおいに公開したいというタイプだったことが幸いしたのは事実だが、それにしても容易ではない。

 普通に考えれば、実に単純な手口の(財務省官僚による)インチキである。しかるに検察が容易に動かないし、国会答弁はのらりくらりで、いくらでも逃げ続けられる。それを野党の調査が1つひとつ煮詰めた次第だ。

 財務省のけったいな行動――善悪・是非を弁えず――の原因はなにか? 財務省の関係者が、誰かに頼まれもしないのに、ただ魔が差しただけか? この問題から、庶民はいかなる政治的事実を生み出すか。庶民の出番だ。