週刊RO通信

一過性のブームに終わらせたくない本

NO.1229

 『君たちはどう生きるか』(1937)が大人気らしい。著者は吉野源三郎さん(1899~1981)だ。吉野さんは、1946年創刊の雑誌『世界』編集長であり、日本国憲法の浸透と平和運動におおいに貢献された。

 1936年2月26日、「二・二六事件」が起こった後の11月ごろから執筆に着手し37年5月に脱稿した。吉野さんが47歳から48歳。31年に満州事変が勃発し、わが国が軍国主義道をひた走っていた時期である。

 山本有三さん(1887~1974)が35年に『日本少国民文庫』刊行を計画された。言論・出版の自由が極度に抑圧されて、まさにお先真っ暗であった。山本さんは、次代を担う子供たちに未来への希望を託された。

 山本さんは、軍国主義がわが物顔に世間を支配しているときに、「自由で豊かな思想」の種を撒こうとされた。『日本少国民文庫』は全16巻、第1回配本は山本さんの『心に太陽をもて』であった。

 『君たちはどう生きるか』は、山本さんが執筆される計画だったが、重病になり、吉野さんに執筆を依頼された。吉野さんは『日本少国民文庫』の編集主任であった。

 『君たちはどう生きるか』が刊行された直後の7月7日に、盧溝橋事件が起こり、日中全面戦争に突入した。41年12月8日から太平洋戦争が開始して、この本も刊行できなくなり、敗戦後、ようやく復刊されるのである。

 わたしがこの本を読んだのは56年で、新潮社が『日本少国民文庫』の復刻版を刊行した直後であった。主人公のコペル君は中学1年生である。わたしは小学5年生。母が隣町の書店で求めてきた。

 やさしい語り口だから、すらすら読んだ。自分が広い社会の1分子で、網の目のような社会の1つの目であるという理屈にすんなり共感した。人間は1人では生きられない、皆で生きるのだと確信した。

 コペル君はコペルニクスを縮めたのである。自分中心で世の中を見ているだけではいかん。天動説から地動説へ転換した「コペルニクス的転回」を語っているのだけれど、まったく上っ面を理解しただけであった。

 自分中心で世の中を見るだけではいかん。ということだけであれば、刊行当時は紛うことなき全体主義国家の時代であるから、慌て者ならば「そうだ、お国のために」と突き進むかもしれない。

 わたしは戦後民主主義しか知らなかったから、もちろん「お国のために」という方面へは行かなかったが、後で考えれば、「お国のために」に短絡させないように工夫しているところに深い意味がある。

 ここでいう自分中心ではいかんというのは「滅私奉公」ではなくて、真実や真理を見抜く曇りのない目をもちなさいというのである。そういう文章を書かず、天動説が地動説に変わった事実に留めたのも非常な工夫である。

 コペル君の「人間網の目」論は、おじさんによって、「生産関係」の説明が詳しくなされる。最初、人間はごく少数のかたまりで暮らしていた。それが、やがて大規模な国と国との関係になると書かれている。

 いろいろな物は、数知れない人々の働きによって手元に届く。まさに人間は網の目の関係なのだが、それが本当に「人間らしい関係」を作っているだろうか。と、おじさんはコペル君の思索を促す。

 本当に人々が網の目、すなわち、網であるためにはつながっていなければならないことを考えているだろうか。と、言外に語っている。戦争反対に直結させていないが、それを書けば発禁は必然である。

 さらに考えれば、はじめに人間が存在したのであって、はじめに国家があったのではない。万世一系、神さまの子孫がわが国を統治しているというような国家主義思想下であるから、個人と国家を直接的に並べない。

 E・H・カーが『危機の二十年』を書いたのは1939年である。カーは「国家を人間社会の究極の集団単位として扱う、その愚を犯してはならない」と書いた。国家は、元々、人々がよい生活をするための手段だったはずだ。

 吉野さんもそれを書きたかったと思う。そのような表現をせずに、皆がコペル君のように真実・真理を見つめようとすれば、社会はきっとよくなると、期待を込めたに違いない。コペル君にならっておおいに思索したい。