週刊RO通信

憲法を守らぬ首相が正しい政治家か!

NO.1227

 某政治学者が、安倍首相は以前の記者会見で「情熱と見識と判断力をもって政治に挺身してきました」と語ったが、これはマックス・ウェーバー(1864~1920)『職業としての政治』を読んだ上の発言だろうと推測した。

 ウェーバーは、政治家の重要な資質として「情熱」「責任感」「判断力」の3つを掲げたのである。もし、安倍氏が『職業としての政治』を読んだ上で語ったのだとすると、「責任感」が「見識」に変えられている。

 「責任感」と「見識」の違いにはかなり大きな意味がある。なぜなら、どこまでも安倍流の情熱と見識と判断力で突き進むのであって、責任は持たない(持てない)という次第だからである。

 そもそもウェーバーのいう情熱は、自分の独りよがりの見識に基づいて猪突猛進することをいうのではない。仕事をなすに当たって、対象の「事柄」に対して精神を集中して冷静さを失わず取り組むことをいう。

 政治という仕事への奉仕は、責任性と結びつき、仕事に対する責任性が行為の決定的な基準となったとき、はじめて真の政治家たりうるというのである。すなわち、政治倫理・道徳を確立してこそという意義だ。

 安倍氏は、李下に冠を正さず——という言葉を知っていても、他者から「桃をとったのではないか」と疑われる事態を招いた。冠を正したのみならず、もっと不都合な真実が隠されていると見られていることがわかっていない。

 つまりは安倍流の見識が疑惑の根源であり、そんなものに情熱を傾けて突っ走っているような判断力に対しては、本人以外は信頼を置かない。まして、自分に追従しないジャーナリズムを叩くなどは馬脚を現したのと等しい。

 首相という立場が極めて強力だということはこの数年の政治を見ていればよくわかる。首相を支えているのは官僚群である。官僚群が安倍氏を支えなければいかに多数党といえども守りきれないはずだ。

 かつて憲政の神様と称された尾崎行雄(1858~1954)は、桂太郎内閣弾劾で「玉座を以て胸壁とし、詔勅を以て弾丸に代えて政敵を倒さんとする」と演説した。いまは、「官僚群を以て胸壁とし、与党多数を以て議会政治を蹂躙(じゅうりん)する」とでもいうべきか。

 敗戦までの内閣は足許が常にふらふらとして不安定であった。なぜなら、枢密院・元老・重臣会議・宮内省、とりわけ統帥権独立を振り回す軍部が怪力を発揮して、それぞれが内閣に圧力をかけまくったからである。

 しかも、首相は各大臣の調整的役割に過ぎず、陸軍の意を呈した陸軍大臣が反旗を翻すと、閣内不統一で内閣総辞職するしかなかった。

 いまの首相は実質的に元首である。行政権は内閣に属し(憲法第65条)、首相は内閣の首長として(同第66条)、各大臣の任免権を持つ(同第68条)。いずれかの大臣が反乱してもクビを挿げ替えればお仕舞だ。

 三権分立が建前であるけれども、裁判官は内閣の権限で指名・任命されるし(同第6条2、第79条、第80条)、最高裁は違憲立法審査に及び腰で、内閣の政治的立場に同調するのみである。

 すなわち国会以外に内閣を掣肘(せいちゅう)する機関が存在しない。国会が果たして内閣を掣肘しうるか? 首相は国会議員から国会の議決で指名する(同第67条)。内閣は行政権行使について国会に対して連帯責任を負う(同第66条3)のであるが、閣議決定が自由自在におこなわれている。

 内閣が国会議員の多数派から選ばれるから、内閣提案が国会で否決されることはまずない。議員が大臣病に支配される限り、とりわけ、与党政治家の良識的反乱は期待しがたい。内閣、首相が国家権力の最高機関となっている。

 首相は国民全体の奉仕者(公僕 同第15条2)で、憲法の尊重擁護者(同第99条)でなければならないが、現実は、支配者として君臨している。

 公僕意識がほとんどない安倍氏が、自分の「見識」を唯一絶対として、あたかも自己陶酔しているような体たらくであるから、マックス・ウェーバーが主張したような「職業としての政治」家でないことは間違いない。

 そもそも、政治で失敗した場合、責任を取りようがない。それはあの戦争で完膚なきまでに証明された。しかも政治を旧に戻そうとするのが安倍流である。安倍流を掣肘するのは、押し並べて国民各位でしかない。