週刊RO通信

まさに「精神の危機」の渦中にある

NO.1225

 P・ヴァレリー(1871~1945)が「精神の危機」を、彼のカイエ(手帳)に書き残したのが1919年。第一次世界大戦で、度し難い人間の愚かさと危険性に痛烈な衝撃をうけたなかから生み出された人類的反省の書である。

 精神(エスプリ esprit)は、気であり、天地を充たし、宇宙を構成する基本という意味からして、精霊から酒精にまで使われる言葉である。

 ヴァレリーは、知性、思考・判断をつかさどる原理、悟性・知能、あるいは天才・才能・才気などを包含する意味として使っている。

 この世に生を享けた人間は自然状態では、いわゆる馬鹿に過ぎない。生物として考えれば、人間は馬鹿が自然状態である。

 ところで人間が生物的自然状態的馬鹿であったら、人間相互間の殺戮行為は発生しないであろう。なぜなら、人間以外の動物において同一種同士は殺し合いをやらないからである。

 同時に人間以外の動物は文化・文明を創造しなかった。自然界では馬鹿が普通でありまともであるが、人間社会では利口が尊重され、普通でありまともであるはずの馬鹿が排除されやすい。

 人間は動物より利口になった。利口になったから文化・文明を創造したのであるけれども、そのお陰で破壊・殺戮を平然としておこなって痛痒を感じない。そればかりか破壊・殺戮によって英雄を生み出しもする。

 みんなが利口になったら——世の中は、いったいどういうことになるのか。ヴァレリーは「精神の危機」の冒頭――文明はすべて滅びる運命にある――と記した。永遠不滅のものはないし、偶発的要因で滅びる。

 当初直ぐに終わると観測された第一次世界大戦は終息に5年を要した。ヴァレリー「精神の危機」は第一次大戦直後に発表され、当時は大いに人々を厳粛な気持ちにさせたはずだが、20年後に第二次世界大戦が勃発した。

 20世紀は2度の世界大戦で、利口なはずの人類は金輪際このような事態を招きたくないと願い、密やかにも決意したのではなかっただろうか。日本国内の論調も「繰り返しません」の基調が色濃かった。

 残念ながら「悔恨の情」というものも永遠不滅ではないし、反省した当事者も現世を去り、後世代が続々登場する。悔恨・反省の時代が去り、ヴァレリーのいう「精神=知性」が新しい時代に立ち向かうことになる。

 日本の場合、軍国主義的国家主義の鉄兜を脱いで、「基本的人権」の基盤に立ち、「主権在民」のデモクラシー国家として再出発した。厭戦気運とデモクラシーへの期待で歩き出した当初にも、すでに先を危ぶむ知性の声があった。

 フランス文学者の渡辺一夫(1901~1975)は、敗戦直後から、「軍国日本が一夜にして文化国家に生まれ変わった」ことが上滑りするのではないかと危ぶみつつ、「昔はものを思わざりけり」と警句を残した。

 ルソー『社会契約論』を翻訳した桑原武夫(1904~1988)は、戦後数年で、「主権在民という言葉が一時流行したが、その真意は覚えぬ先に忘れられかけている」と警鐘を鳴らしていた。

 知性を単なる利口(知力)と考えれば、日本人は決して非知性的ではなかろう。しかし、知性が創造したもの・ことを使って戦争をするのである。それを思えば、知性は単独では危うい。徳義の観念が育たねばならない。

 周辺の些末なことから国際政治に至るまで、わたしたちは常に「秩序あるいは無秩序」の不安定な世界に生きている。秩序を求めるはずだが、現存する秩序の矛盾をうまく解決できないために無秩序へひた走る。

 秩序の矛盾を解決するのは知性である。なるほど政治的課題には絶対の解がない。それぞれの知性が主張する問題解決の枠組みにもまた絶対的なものがない。枠組みが異なっている同士が知性の衝突を発生させる。

 「政治を科学する」と語って揶揄された政治家がいたが、この言葉は間違っていない。否、いわゆる科学と離れているのが政治だとすれば、尚更、政治家は深刻・真剣・真摯に科学的たらんとするべきである。

 ところが美辞麗句を並べて、平然と言行不一致の行動をする政治家が政治権力の頂点に立つ。言葉によって思考する人間が正しく話さない(話せない?)。わが国の政治はまさしく「精神の危機」の真っただ中にある。