週刊RO通信

国難という言葉を弄ぶ無責任

NO.1220

 1961年、イギリス政府の核政策に反対して市民運動を組織したバートランド・ラッセル(1872~1970)が国防省前にシットインした。ときに88歳であった。そして逮捕、たしか2度目の投獄体験だった。

 数学者であり、哲学者であり、50年にノーベル文学賞を受賞したラッセルの平和への志はいささかの逡巡もなかった。

 主要紙のコラムニストが「核廃棄論を唱えるとは狂気の沙汰」であると批判した際、ラッセルは慌てず騒がず「核に依存するのはヒステリー」であると反駁した。ただし、反駁文を新聞は掲載しなかった。1961年の日本人の大方はラッセルに共感したのである。

 米国大統領ハリー・トルーマン(1884~1972)は、広島・長崎に原爆を投下したことを正当化したが、ラッセルと比較して、いずれが正気であるか。いまの時代の人々もとくと考えるべき価値がある。

 最近、リアルに見るとか、リアリティという言葉がよく登場する。北朝鮮による危機が高まっているとの報道、あるいは選挙戦における「国難」の大声疾呼にはリアリティがあるのだろうか?

 おちょくるわけではないが、リアリティありならば、Jアラートを鳴らして、座布団引っ被って「伏せ」なんて行動に果たして意味があるだろうか。「どこへ逃げるんですか?」という質問に答えてもらいたい。

 この間の事情を顧みて誰でも思うだろう。金正恩氏は厄介だが、トランプ氏もまた厄介である。天変地異が来るのではなく、要は2人を軸として政治家・官僚が作り出した危機である。緊張を解きほぐすのがリアルな態度だ。

 自民党の諸君が、国家国民を守るのは自分たちだけだと絶叫する。では、問いたい。いかなる裏付けがあるのか。絶叫する暇があれば、国民各位に安全確保についての具体策を知らせるべきだと、わたしは思う。

 そもそも、金正恩氏が「来来パー」で、あるいは追い込まれて「最早これまで」と暴発した際、いかなる攻撃が予想され、対していかにして守るのか。新聞記者諸君が質問してくれないのがもどかしい。

 もし聞けば、「国家機密だから公開できない」と回答するのだろうか。教えれば国民諸兄が不安に駆られるからという親心(?)だとしても、いざ、なにかが勃発すれば、「まあ、それはその時」ではすまされない。

 国家国民を守ると大言壮語しているけれども、要するに「なにが起こるかわからない」というのが本音に違いない。なにが起こるかわからないのに、「お任せあれ」などというのは、正真正銘の騙りである。

 トランプ氏がなにを考えているのかわからない。どぎつい表現で北朝鮮を挑発するから、米国内では、もっぱら軍人出身のマティス国防長官・ケリー首席補佐官・マクマスター大統領補佐官らに期待が集まる。

 シビリアン・コントロールの親玉をミリタリアンがシビリアン・コントロールするように期待されるというところに、十二分に事態の危険性が集約されている。安倍氏は米国ミリタリアンよりもトランプ側近みたいである。

 頼みの綱は米国軍事力であるとして、世界最強の軍事力をもってしても、すべてが片付かない。核抑止理論は、巨大な核をもてば相手国がビビッて尻尾を巻くという理屈だが、ヤケクソの暴発を阻止することは不可能だろう。

 この程度の認識もなく、国難を大声疾呼し、国家国民を守るという空手形を切るのだから、もはや無責任を通り越して、性格破綻状態みたいである。ひょっとして「交差点、みんなで渡れば怖くない」の気分だろうか。

 国家国民を守るというなら、少しでも危機を緩和する努力をするべきだ。まして、万一火を噴いた場合、戦火を容易にコントロールできないし、人類最後の戦争になるリスクが高いことくらいは想像できるだろう。

 自民党諸君が「戦争にはならない」と安直に考えているからこそ、平然と大口が叩けるというものだ。鈴木貫太郎(1867~1948)は「戦争というものはしたくなくてもいつの間にか戦争になっている」と敗戦後に語った。

 国難——というような極端な言葉を為政者が使うとき、客観的には彼らの政治は行き詰っている。なにがなんでもこの選挙、無責任と騙りに塗れた与党に真っ当な国民意思を見せてやりたいものである。