論 考

大衆のあり方を問わねば

筆者 小川秀人(おがわ・ひでと)

 ホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883~1955)著『大衆の反逆』(1930年)は、解釈がその邦題から誤解されがちだ。(かく言う筆者も誤解していた一人だが)、虐げられてきた大衆が、体制や権力に反抗することを論じているのではない。むしろ統治能力のない大衆が、歴史に学ぼうともせず、数の論理だけで国家の支配者になろうとする。つまり、多数者の見解だけによって正しい進歩が成し遂げられるという傲慢な発想、愚衆による民主制の危うさに警笛を鳴らした書である。

 オルテガは言う。「進歩した文明とは困難な問題をかかえた文明にほかならない。(中略)問題が複雑になると、それを解決する手段もまた精密になってくることは当然である。(中略)この手段のなかには・・・少し具体的にいうと・・・文明の進歩にそのまま結びついた一つの手段がある。それは、その背後にたくさんの過去を、たくさんの経験を持つことである。すなわちその手段とは、歴史を知ることである」と。

 生きた死者(先人)たちから様々なことを学び、その経験を活用しながら物事を漸進的に進めていく、そのために必要なのが「歴史を知る」ことだ。またオルテガは、過去と向き合わず、未来だけを見ている進歩は無意味だとも言っているが、これは当時の共産主義や全体主義への痛烈な批判であることは明白だ。ロシア革命(1917)、イタリアのファシズム(1922〜)、ドイツのナチズム(1933〜)といった全体主義が権力を握った時代背景と完全に一致している。言わば歴史を顧みず、急激に革命的に変わってしまった社会は、どこかで揺り戻しが来て最終的には終焉を迎えることを示唆している。

 我々は過去からの歴史の延長線上に生きている。そして、この歴史は未来永劫続いて行くという前提や展望があるからこそ今が成り立っている。【過去の歴史⇄現在の我々⇄未来への希望】がループ(無限に循環)していると見れば、今を生きている我々が了であればそれで良い。ましてや多数派が、或いは多数派を語って自分たちさえ心地よければ、それが正しいという傲慢な態度にはならないはずだ。

 さらにオルテガは言う。「大衆は、前もって意見を作り上げる努力をしないで、その意見について意見を持つ権利があると信じている。・・・大衆とは、善きにつけ悪しきにつけ、・・・自分を“すべての人„と同じだと。しかもそのことに苦痛を感じないで、自分が他人であることに喜びを感じる」とも。まさしく同質性を好む、他者と同じでいることに安堵する日本人を痛烈に揶揄する言葉だ。

 これは古い政治の世界に限ったことではなく、いまの日本社会にも至る所に散見される。こと民主制においては多数派がモノ事を決めていく、労働界はその最もたる世界だ。多数派が少数派を潰そうと思えばいつでも潰せる状態にあって、それはとても嫌なことだ。しかし我々は現実としてそのような社会を生きている。これを少しでも和らげるには、少数派が意見を表明できる余地を必ずどこかに残しておくこと。「私は貴方の意見には明確に反対だが、貴方が意見を表明する権利と機会は命をかけて守る」ことであろう。対立する意見が闘った先に新たな価値が生まれるかもしれない・・・という達観した境地に、労働界のポリシーがあるのだろうか。