筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
毎年ではあるが、元日の新聞は2部、3部に、区の広報、折込広告が加わってどっさり。2部、3部は言うに及ばず、紙面を飾るのも広告で、読むところは量も質も少ない。おとそ気分でお読みくださいという配慮らしい。
数日前、ひさしぶりに漱石さんを読みたくなり、岩波文庫『漱石日記』を買った。昔の夏目漱石全集を通読したときにも読んだが、イギリスへしぶしぶ留学した、漱石さんの苦虫を噛み潰した文章を読みたくなった。
『文学論』のはじめに、漱石さんは、「ロンドンに住み暮らしたる二年は最も不愉快の二年なり」と書いた。イギリス留学は1900年(明治33)、漱石さん33歳である。
まず船旅で船酔いに苦しみ、無聊を慰めんとして俳句を読もうとするが、それどころではない。ようやく最初の句が日記に記されるのは出航から一カ月近くになった。横浜港を9月8日出発、ロンドン到着は10月28日だ。
ロンドン生活は、まず気象が面白くない。冬は煤煙と塵埃に閉口する。それでもこまめに街を歩き、眺める人々を観察する。
――この煤煙中に住む人々が何故美しきや解しがたし。思うに全く気候のためならん。太陽の光薄きためならん。往来にて向こうから背の低き妙な汚き奴が来たと思えば我姿の鏡にうつりしなり。我々の黄なるは当地に来てなるほどと合点するなり。――
漱石さんは、日本の来し方、行く末をいつも念頭に置いて見ては考える。
――日本人は三十年前に覚めたりという。しかれど半鐘の声で急に飛び起きたるなり。その覚めたるは本当の覚めたるにあらず。狼狽しつつあるなり。ただ西洋から吸収するに急にして消化するに暇なきなり。文学も政治も商業も皆然らん。日本は真に目が醒めねばだめだ。――
翌年日英同盟が締結され、国内では提灯行列の騒動をやっていたが、漱石さんは義父への手紙で、身の程を知らねばいけない。不釣り合いの同盟で舞い上がってはだめだ、と書き送っている。
――日本人を観て支那人といわれると厭がるは如何。支那人は日本人よりも遥かに名誉ある国民なり。ただ不幸にして目下不振の有様に沈淪せるなり。心ある人は日本人と呼ばるるよりも支那人ていわるるを名誉とすべきなり。たとえ然らざるにもせよ日本は今までどれほど支那の厄介になりしか。少しは考えてみるがよかろう。――
日清戦争(1894~1895)のあと、日本人は東亜の指導者気分に酔い、中国人とみれば侮蔑する傾向が非常に強かった。漱石さんは冷静沈着に日中関係を考えていた。そして、
――未来は如何あるべきか。自ら得意になる勿れ。自ら棄る勿れ。黙々として牛のごとくせよ。孜々として鶏の如くせよ。内を虚にして大呼する勿れ。真面目に考えよ。誠実に語れ。摯実に行え。汝の現今に撒く種は、やがて汝の収むべき未来となって現わるべし。――
やはり、漱石さんは日本の偉大な文学者である。
