論 考

社会は変えられる! 

筆者 新妻健治(にいづま・けんじ)

AI時代の雇用喪失

 日経新聞に、AI(人工知能)と雇用に関する特集記事が載った。それによると、AIは、あらゆる仕事の再定義を迫り、2030年までに、世界で最大8億人の職を奪うと予測されている。ゆえに、AI企業のトップは、この職を得られない人びとに対して、新たな社会保障のあり方を、政府に強く求めているのだという。(*1)

 資本主義は、いま、知識や情報という無形の資産が利潤を生み出す非物質的転回という新たな資本蓄積の回路を見出した。その最先端にあるのが、AIだ。しかし、この資本主義の非物質的転回は、多くの雇用を生まず、労働需要の二極化(知的集約的労働と対人サービスないし肉体労働等)と、それにともなう賃金水準の分極化(底辺と頂点の水準格差)をもたらす。

 この記事で紹介されていた、AI企業トップが政府に求める新たな社会保障とは、無条件で最低限の生活費を支給する「ユニバーサル・ベーシックインカム(以下、UBI)」だ。もう一つは、職を失った人びとに、UBIのように現金を支給するのでなく、「AI利用権(無料使用の権利)」を割り当て、リスキリング(学び直し)により、職を得させようというものだ。

 しかし、UBIは、膨大な財源を要するが(現国家財政の1.5倍が必要という推計)、その当ては示されていない。また、この制度は、職を得られない人びとの就労意志を挫き、社会参加を阻み、人間としての尊厳を蔑ろにする。そして、リスキリングにより職を得よというが、そもそも限られた雇用しか生まない事態にあって、それが本当に可能なのかは、極めて疑わしい。

 この記事を読んでいて、AI企業トップの無責任さと、この議論が、人間の尊厳を蔑ろにした資本の蓄積にあることに、私は怒りを覚える。

深刻な問題の兆し

 また、この特集の別な記事では、AI技術の開発や進化に係る懸念が紹介されていた。AIの進化は、社会的・道徳的、ひいては倫理的な問題において、既存の価値観では対処できない、予測不能な事態をもたらすだろうという。(*2)

 しかし、このような問題の枠組みを抜きにしてでも、AIの技術開発を急ぐべきだという、「効果的加速主義」が、主張されている。その理由は、AIの進化が、地球温暖化や貧困、戦争等、文明レベルの課題解決をもたらすからだという。

 また、前述の雇用問題への対応も含め、民主主義に根差した倫理観が、AIの進歩の足手まといになるという主張がある。それゆえに、権威主義的統治のもとで、AIの技術革新を加速させよというのだ。つまり、近現代に、人類が培ってきた理念や価値観に対して、批判的ないし否定的な思想までもが、技術開発のためにと、実しやかに語られるようになっている。私はこれについて、大いなる危機感を抱く。

経済成長言説と日本人

 日本人は、高度経済成長という、資本主義の特異な時代を経験した。それゆえに、「経済成長が、幸せをもたらす。」という言説を、常識として疑わず、さらに経済的な豊かさを求めて、これまで生きてきた。

 そして、政権与党は、その言説を最大限に利用し、自らの権利・権益の獲得・維持という我執を動機にし、経済偏重の政策を遂行してきた。また、その体制が綻びを見せれば、ときに都合よく、国民に対して福祉を匂わせ、自らの本質を変えることなく、福祉国家を装うことで、長期政権を維持してきた。しかし、資本主義は、格差を利潤蓄積の源泉とするのだから、人びとの経済格差は拡大こそすれ、解消することない。

 いま、日本経済は、失われた30年が過ぎ、40年の途上にある。日本は、世界的潮流である、資本主義の非物質的転回による産業構造転換の後塵を拝してしまった。産業資本主義の主戦場は日本から遷移し、製造業の衰退は著しく、所得中間層の厚みは崩壊し、格差社会が著しく進んだ。すでに、日本の相対的貧困率(可処分所得の中央値の半分=貧困線以下の割合)は、約15%、6人に1人が、貧困世帯に相当するという、問題の事態となっている。

 しかし、経済成長の言説を常識とする日本社会では、「努力すれば報われる」「頑張れば豊かになれる」という、自己責任論も常識であり、政治の責任を厳しく問う人は少ない。もうすでにそうなっているのか、これからなのか、いずれにしても、この事態に、AIの技術開発が進展すれば、さらに問題は深刻化していくだろう。

 ゆえに、私たちは、叶うことのない経済成長言説を捨て、その外に選択肢を持たなければ、多くの人びとが、この体制の中で、居場所を持てず、人間としての尊厳が挫かれて生きていくことになりかねない。

次代を考え語る勇気

 世界はいま、持続可能性において、大きな転回の契機を迎えている。そして日本は、これまで述べてきた問題の克服を重ね併せて、次代に、どのような社会を目指すべきかという、大きな分岐の局面を迎えている。

 しかし、日本の政治は、政局と政策の次元での争いに終始している。とりわけ、野党は、日本社会を覆う経済至上の言説の覇権体制を覆すべく、戦略的に対抗しなければならないのに、「対決より解決」を主張し、体制の延命に加担する。あるいは、「穏健・中道・リベラル」と抽象論を語るに留まるばかりだ。

 人びとは、経済成長言説を常識としつつも、思うようにならない現実に対する不満や、将来的に経済的困難を背負うかもしれないという不安に苛まれている。これに、社会的孤立が拍車をかけ、人びとは、偏狭なナショナリズムや復古主義、または排外主義など、手近な帰属先を求め、それに固執していく。これを利用する虚構性の政党が、勢力拡大を果たし、問題を媒介、増幅している。この問題の深刻さは、加速度的に増している。

 私は、人間としての尊厳が挫かれてしまうような社会には、生きたくない。自分の意志で、自分らしく、社会から必要とされながら、自分を生きていきたい。人間にとって、一度きりの人生、それ以上の価値は無い。私たちは、この経済至上の言説が支配する社会ではない社会を構想して、次代を考え、それを語る勇気を持たなければならない。

社会は変えられるのか

 しかし、漠然とした思いでは、その困難さを想起することで、気持ちは萎え、行動に移せないかもしれない。しかし、いつも思うことだが、できるかできないかではなく、自分のためなのだから、自分自身が決めるという行為が必要なのだ。決めることで、どうすべきかの一歩を、具体的に踏み出すことができる。この一歩は、たとえ微小であっても、具体的な変化であることには間違いない。そして、その分だけ、社会は変わったと言えるのではないだろうか。

 歴史を俯瞰すれば、社会は、変化することに対して、開かれている。だから、社会とはどのようなものであり、その現実とは、どのようにして生み出され、構造化され、そして、人びとに、常識や現実とし受け止められ、常態となっていくのかを、私は知りたい。

 ミシェル・フーコー(仏・哲学者 1926~84)は、「常識」や「現実」とされるものは、あらかじめそこにあるのではなく、人びとの語りや実践の積み重ねによって構築されるといった。であれば、社会は変えられる。

 また、内山節は、一つの社会には、その社会を生み出している価値の体系があり、それをつくりだしている基礎構造がある。人間は、この価値体系を、暮らしや自分の行動の中に取り入れ、人間の精神として習慣化し、また一面では、この価値体系を現実化させる社会構造を持つことにより、その価値体系が本物となっていくと主張する。(*3)

 人間社会は、人間の「精神の習慣」、「価値体系」、「社会構造」が、相互依存して形成され、一定の安定をみているのだ。だから社会は、変化することに向けて開かれており、社会は変えられると確信する。

さいごに

 私にとって、決断の後の第一歩は、学ぶことで、その足らざるを補うことだ。学ぶことで、不満や不安を感じる自分自身に向き合って考え、ときに書き、ときに語り、そして何かに思い至った時、私は感動し、それが、次なる何かへの動機となっていく。それが微小であっても、その分だけ社会は変わったと言えるのではないだろうか。

 人間いかに生きるべきか、いや、心の底から、どう生きたいのかと、その本質的動機に根差せば、一人からであっても、そして、政治も労働組合運動も、社会を変えられると、私は思う。これを可能にしていくことが、ラディカルな民主主義というものではないだろうか。このことを、学び、考え続けた、自分自身のこの1年の、締めくくりにしたい。

<引用・参考文献>

*1 特集・超知能第3部AI時代の雇用「仕事の再定義④」―「8億人失業」社会保障どうなる 日本経済新聞、2025年12月11日

*2 特集・超知能第3部AI時代の雇用「求む哲学専攻」、日本経済新聞、2025年12月8日

*3 内山節+竹内静子、「往復書簡 思想としての労働」、1997年、農山漁村文化協会