NO.1646
日本が日清戦争(1894)を始めたとき、勝海舟(1823~1899)は、「無名の師」だと批判した。戦争の大義名分がない。海舟の考えは大きい、中国・朝鮮とは相携えて歩むべきだとする。政府の考え方とは国家戦略のスケールも次元も違っている。
海舟は西郷隆盛との江戸城無血開城が有名だ。薩摩軍と断固戦うべしという強硬派を抑えて西郷との交渉に臨んだのは、幕府の存亡よりも日本の将来を考えたからである。幕府は政治の執行機関に過ぎない。江戸150万人を戦火に巻き込むだけでなく、下手をすると英仏の介入を拡大させ、国の存亡が危うくなる。
福沢諭吉は、後に海舟が恩義のある幕府のために戦わなかったと非難したが、『学問のすゝめ』の著者にしては次元が低い。諭吉は、脱亜入欧を唱えた。日清戦争勝利では、随喜の涙を流し手放しで喜んだ。しかし、日清戦争の勝利が天皇制イデオロギーを確立させ、精神教育に偏重し、軍国日本の方向性を決め、やがて15年戦争で一億壊滅の瀬戸際に至った事実を思えば、海舟の慧眼が光る。
海舟は語った。――国というものは、独立して、何か卓絶したものがなければならぬ。西洋、西洋といっても、よいことは採り、そのほかに何かなければならぬ。それがない。だから西洋の真似に終わる。西洋からすれば、日本など子ども扱いだ。それでいい気になってどうするのか。――度量の狭い脱亜入欧の批判でもある。
海舟の視線は、庶民の視線である。政治のリアリズムはこうありたい。「何か卓絶したもの」というのは、真似るだけではなく、さらに価値を生まねばならぬ意義である。追いつき追い越せとは、学ぶその先を示唆している。これも慧眼だ。
中国の張謇(1853~1926)は江蘇省南通の人。南通に紡績工場はじめ、さまざまの企業を起こした。それだけではなく、多くの学校を設立し、また、立憲運動の指導者としても活躍した。彼は、日清戦争に敗北した直後、日本へ多数の留学生を送った。日本から学べというわけだ。敗北してめげるどころか、敵方へ奮起して学びに行く。中国の国起こしの活力は、やはり学びとる力にある。
日本は勝って兜の緒を締めず、有頂天になった。日清から日露戦争へ、満州事変(1931)、日中戦争(1937)へ。さらに、太平洋戦争(1941)へ突入して、無条件降参することになる。まさに国民・国家存亡の崖っぷちで踏みとどまった。それから1970年代までは学ぶ時代が続いた。
1960年代の技術職場では、設計基準総覧も米国会社の翻訳版で、インチをメートル尺度に読み直していた。何よりも彼我の技術格差が、新米のわたしにも身に沁みた。先輩たちは、それでもただ真似るだけではなく、さらなる価値を付加するように、何かを生み出すべく奮闘しているのがよくわかった。だから活気があった。
1980年代、わたしは会社の外へ出たが、もはや他国から学ぶものはないという気風が気になった。経済大国になって、またぞろ天狗の鼻が伸びてきた。国というものは外から滅ぼされるのではなく、内部から崩壊することを痛感する。
いま、そろそろ反省機運が芽生えているだろうか? まだ地に足が着いていない。失われた30年という言葉は、反省の機運が起こっても惰性を打ち破るのが非常に難しいことを示している。反省に性根が入らない。最大の理由は、「なぜ」このようになったのか、その核心に触れようとしないからである。
学ぶ知識が椅子取りゲームを目標とするようでは、力にはなるまい。高学歴社会になって、社会活力が減退していることを奇妙に思わないだろうか。知識は、社会に役立てるからこそ価値がある。世間を小利口に立ち回る人物が増えれば増えるほど社会の停滞は深まる。何を学ぶべきか。立ち止まって考えねばならない。
