筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
高市内閣に期待する気持ちはない。内閣支持率が高いそうだが、もちろん「期待」が押し上げているのだろう。わたしから見れば、期待できるような対象ではないのに、期待する人々がお気の毒だ。どうせわたしをだますなら死ぬまでだましてほしかった――という流行歌があった。なんだか切なくなるような世論ではなかろうか。
政治の批判がゆるく、期待が高いのは、リアルではない。幻覚症状である。期待してもしょうがないと知りつつ期待する。政治に過度の期待をかけるのは民主主義の民ではない。戦後民主主義の時 代に生まれ育っていながら、おつむの中には専制国家時代の思想がしっかり根付いているわけだ。このひ弱さが日本的民主主義の本尊である。主権在民という言葉を思い出そう。
典型的なことが、維新の諸君が格別の思い入れがある議員定数削減だ。「身を切る改革」というキャッチフレーズである。維新の支持者が多い地域では、これが受けるらしい。いかにも厳しい政治姿勢のようだが、実はスカスカ。収益を上げるためには投資せねばならない。投資抜きで増収増益を狙うなんてのは理屈にもならない。失われた30年だと大声疾呼するが、その苦い体験から何も学び取っていないではないか。一騎当千の議員などいるものか。
大量解雇で息をついた企業が多かった。しかし、息をついたものの再建が成功した企業は少ない。組織の力は人の知恵と技である。人を減らしたのだから知恵と技が強化されるわけはない。なるほどちびちびけちけちため込んで、内部留保は600兆円を大きく超えている。にもかかわらず、日本経済は円安の泥沼から足が抜けられない。
円安で輸出企業が好都合なのは間違いない。ただし、この間の事情を顧みれば、超円安なのに日本経済は相変わらずもたもた続きである。逆にいうと、円安でなかったら経済はもっと沈没していたといいたくなるような状態だ。円安でも、その輸出競争力は低空飛行するばかりである。知恵も技も発展しなかったのが1990年代から日本経済である。
膨大な内部留保がありながら、新規投資の質や規模は貧弱だ。投資せずして企業が発展するわけがない。だからといって投資すればいいわけではない。投資しても、それを使いこなす知恵と技がなければだめだ。いまの日本企業は、大きくみれば、投資する知恵がない。投資してもそれを駆使する知恵と技がない。
政府予算も同じである。年末・年度末が近づくと、やたら道路工事が増える。予算を使わねばならないからである。ところが、こんどは人手が不足だ。動員しようとすればするほどコストがかさむ。予算の消化はできても、工事の質・規模の程度はよろしくない。老朽化したインフラの改修のペースは上がらない。道路が突然陥没したなどの事例は、社会的投資のあり方について警鐘を鳴らしているのである。
地方自治体の知恵と技の劣化は著しい。予算執行の主体は自治体である。日本全国過疎だらけ。おこめ券なる無策の典型が打ち出された。自治体が猛反対している。事務の費用や手間がかさむばかりだという。至極当然である。
高市氏は臨時国会閉会の記者会見で、第一に積極財政で強い経済構築と美辞麗句を語ったが。強い経済を願うのであれば、日本経済が直面して30年余低迷している本当の原因を掴まなければ意味はない。積極財政などとチャラチャラ発言していられる状態か。きわめて深刻なのである。深刻さの認識のない政治家が、身を切る改革を吠えても説得力のかけらもない。
このような軽薄さが身上だから、国の存立事態に関わる発言でドジを踏んだ。質問者が悪いというバカな援護射撃があるが、逆だ。こんな危ない政治家ですよということを質問者は引き出したのである。日本の外交はオープンだと弁解するが、十両力士が大関力士に胸を貸すような発言である。本当に平和を願うのであれば、相手の懐に飛び込んでいく気概が不可欠だ。
高市氏だけではない。わが政治家諸君は「なぜ」という言葉をもっと大切に扱わねばならない。「なぜ」から始まる。それを大切にしないで空論ばかりが舞い踊る国会が価値を生むことは不可能である。ちゃらちゃらとおべんちゃらで票を獲得することばかり考えていてはならない。
意識調査に機嫌よく応ずる皆さまにも、ぜひご一考願いたい。
