論 考

協調会・産業報国会・政労使会議

筆者 小川秀人(おがわ・ひでと)

 戦前、政府官憲による監視や弾圧の対象であった労働組合は、戦争協力および軍需品増産を目的に全国の工場や事業所に設立された労使一体の官製労働組織、「産業報国会」に吞み込まれていった。

 松岡駒吉、西尾末廣らが率いる総同盟は最後まで抵抗を続けていたが、西尾は著書『大衆と共に』の中で次のように記している。「多くの労働組合は、襲い掛かる時局の圧力に抗しえず、相ついで解散し産報組織の中に溶け込んで行った。有力な組合で残っているのは総同盟と交通総同盟だけになった」。その総同盟も時を待たずして、涙を呑んで解散することになる。

 終戦直後、兎にも角にも民主化なった日本で、雨後の筍のごとく労働組合が誕生したが、圧政を潜り抜けた有志の運動の蓄積があったからこそ、すぐに立ち上がることができたのかもしれない。無論、マッカーサーの5大改革が背中を押したであろうことは想像に難くないが、総同盟は混乱期の最中にあった1946年8月1日に創立大会を敢行している(その前日に全繊同盟の創立大会)。西尾はこれを総同盟の「蘇生」と表現している。

 歴史を辿れば、産業報国会の前には「協調会」なるものが存在していた。協調会は、第一次世界大戦後の米騒動や労働争議の頻発を背景に、労資間の協調と社会政策の調査研究を目的として設立された。財団法人で民間の体を取っているが体制側が主導し、設立は 1919年。政府と財界(渋沢栄一など)からの出資によるもので、貴族院議長の徳川家達が会長を務めた。資本家と労働者がお互いに協力、企業の発展と労働者の生活向上を目指す「労資(使)協調主義」の立場を取りつつ、当時の社会主義的な労働運動を抑制する狙いもあった。

 後年、産業報国運動を提言したのが協調会であり、時の政府はこれをテコにして全国の企業に産業報国会の設置を求めたのである。この歴史的背景を知る者は、古いと言われようが、時代錯誤と言われようが、今でも労資協調(労使協調)という言葉を条件反射的に忌み嫌う。

 当時、友愛会の鈴木文治は、協調会設立の発起人に加わるよう渋沢栄一から打診されたが最後は拒否している。この時の様子を自身の著書『労働運動二十年』に克明に且つ生々しく残しているので転載する。鈴木はやみくもに拒否したのではなく、次の条件を提示している。

 (旧仮名遣いを筆者意訳)――①治安警察法17条の撤廃と労働組合法の制定の必要性を、協調会の意見として社会に提唱すること。②協調会が純然たる独立の機関で、政府のために操縦されるものではないことを明らかにすること。③協調会の理事の中に、少なくとも資本家側と同等数の労働者代表を選出すること。④労資間の調停・仲裁等を除き、単に労働問題の調査、研究、教育等に関わる事項のみを取り扱うこと。⑤協調会の名称は世間の誤解を招くので「社会政策協会」と改めること。――以上の条件を受け入れてくれるなら、どんな世間の非難を受けようとも進んで協調会に入り微力を尽くしましょう。と渋沢に呈しているが、その後の行く末は歴史の事実が示すとおりだ。

 時は流れて現在、政労使会議なるものが存在する。勿論、歴史的背景や強制力の強度が違うが、協調会、産業報国会との類似点が浮かび上がる。政労使会議は、政府の主導のもと労働者側と経営者側が共通の目標に向けて協力・合意形成を図るための枠組みである。

 政府の影響下で運営されており、内閣総理大臣のリーダーシップのもとに設置されている。つまり、政府が掲げる重要な政策目標に向けて、労使が体よく取り込まれている点は同じで、直近では政府が経済活性化のために、経済界に対して賃上げを要請し民間の労使交渉に影響を与えると言われる「官製春闘」のきっかけにもなった。

 メディアの露出で、総理大臣の眼前に労使のトップが座らされている絵を見せられると暗澹たる気分になるのは筆者だけだろうか。パフォーマンスはともかく、何が何でも政労使会議が必要であれば、見えない所で、例えば荒木町辺りの料亭で静かにやってほしいものだ。

 もっとも、本当に賃上げへの影響があったかどうかは論証のしようがないが、それにしても「官製春闘」という言葉が平然と罷り通っていることに虫唾が走る。政府が逆に賃上げ抑制に舵を切ったら唯々諾々と労使協調するのか。それが失われた30年の正体ではないのか。鈴木文治は協調会を「官製労働組合」と揶揄している。