NO.1643
師走である。スーパーは早くも正月商品が並び、新聞のチラシはおせち料理の売り込みの賑わいだが、年末年始のそぞろ浮き立つ気分などまるでない。年賀状も用意したが手がつかない。なにしろ内外心配だらけ、どうしてこんなに程度の悪い状況になったのか。
孫文(1866~1925)は「民主主義いまだならず」と言葉を残して没した。封建清国を打破したものの、軍閥が跋扈する時代であり、それから抗日戦争、内戦と続いた。中国社会主義人民共和国が創立されたのが1949年だ。国家建設は容易ならず、1978年の改革開放から、安定するまで十数年を要した。
日本は惨憺たる敗戦ではあったが、国家主義を否定し、民主主義による国造りを進めて80年を経た。わたしは1944年末に生まれて民主主義とともに年を重ねてきた。孫文の時代とは違うが、わが国が盤石の民主主義を築いているとは思えない。
もちろん歴史は直進しない。紆余曲折、一進一退するものだろう。しかし、いま、民主主義の道筋を踏み外す動きが大きいことを危惧する。魯迅(1881~1936)は語った。「封建清国を倒すのは比較的容易だった。しかし、民主国家建設は大変困難である。なぜなら、民主主義は民衆一人ひとりが成長せねばならないからだ。」
魯迅の言葉を、とりわけ日本人は拳拳服膺すべきである。わが民主主義は空から降ってきた。戦争には血を流したが、民主主義獲得のためではない。民主主義をわがものとするためには、心を込めて学ばねばならない。その時期はたぶんあっただろう。ただし、いまではない。敗戦から遠く離れるにつれて、民主主義の価値を大切に扱わなくなっている。民主主義は自然に育つものではない。
民主主義の原点は、「個人の尊厳」である。これを「個人主義」という。個人の尊厳が軽視されれば似非民主主義になる。個人の尊厳は、お互いに誰もが侵してはならない。だから差別を否定する。個人の尊厳が「基本的人権」である。
個人主義は、個人が集団や社会を作っていると考える。つまり、民主主義の権利も責任も個人が担わなければならない。個人主義は利己主義とはまったく違う。
基本的人権を主張すると左翼だと罵ったり、個人主義を利己主義と意図的に同一視する連中がいるが、本音は民主主義の否定にある。彼らが求めるのは国家主義である。国家主義は、社会において国家を第一とし、国家の意思と権威に絶対優位を求める立場である。国家主義は、全体主義化し、国粋主義や民族主義と結び付きやすい。
戦争は国家同士の武力による闘争である。さらに、これこそが最重要であるが、「人間の尊厳」を大切に扱う人は論理・道徳的に戦争を拒否する。戦争を始める政治家は、人間の尊厳を認めていないのだ。政治家は憎い敵国と戦うというが、戦争当事者は国民であるから、戦争することは自国民を殺傷することに他ならない。
すなわち、民主主義が本当に浸透すれば世界は必然的に平和になる。敗戦直後の日本人は、ほとほと戦争を嫌い憎んでいた。だからもっとも民主主義意識が高揚した。戦争を知らない世代は問題を真剣・深刻に考えようとしない傾向がある。とりわけ、排他的言論が幅を利かせるような事態は、日本人が、民主主義と平和に対する知的・精神的堕落の渦中にあると言わねばならない。
政治家が火遊びにのぼせ上がる理由はいろいろある。彼らが戦争に踏み切るのは、煎じ詰めれば国民が同意するからである。民主主義国家であれば、国民は、戦争したがるような政治家を免職することができるし、しなければならない。民主主義が健全であれば、戦争は不可能である。平和が脅かされる現状は、民主主義の現状だ。
政治家の火遊びの行く先は戦争である。彼らの火遊びが増えている理由はただ一つ。国民が民主主義を怠けているからである。
