くらす発見

人生の「徒弟的」考察3 自我欠落

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 先輩(中高年)のみなさんの話を聞くと、理屈ではわかっている内容がほとんどです。それでは新たな発見がありません。不満は若者世代も同じように持っています。にもかかわらず、みなさんが「世代問題」として大きな不満の声を上げたのはなぜなのか。先輩たちの不満には、若者たちとは異なった要因があるらしい。いったい何が違うのだろうか。

 青年活動は中高年問題の声が上がった1970年前後には、かなり衰退現象を呈していました。労働条件が向上したのは事実ですが、それにしても経年的にどんどん衰退し、青年運動のエネルギーが消えています。中高年世代の異議申し立ての声が上がったのと正反対でした。

 若者たちは現在進行中事態にも関心を示さないのですら、中高年問題の本当の当事者が自分だという理解などほとんどできません。その顛末は、自分たちが高齢者になって、若い世代からシルバー民主主義だと剣突食らうのですから、なんともやりきれません。

 全体の雰囲気をあれこれ考えてみました。若者が日常的に抱えている不満は、終業間際になって突然残業を命令されることです。「自分にも都合がある」。自分の気持ちが抑えられず、先輩と口論にもなります。ある職場では、組合の職場委員選挙で、残業への構え方が大争点になりました。現役職場委員の中高年に若者が対立候補として手を上げ、若者が投票多数を獲得しました。ちょっとした騒動でしたが、それ以上拡大しませんでした。

 若者は、残業は8時間労働の制約とは異なって、本人の意志が尊重されるべきだと思います。先輩はやるのが当たり前だと言います。生活残業だとメリットを感じているからだろうか。いや、そうではない。彼らは命令されたら従うのが当然だと考えています。

 わたしが入社した1960年代は、工場の大通りの大看板に「安全第一」と掲げてありました。少し前までは「生産第一」でした。その上にペンキを塗って書き換えたので、注意してみると生産第一が見えました。安全第一は当たり前だと思うのが若者ですが、先輩たちの頭の中は生産第一です。工場でちょっとした怪我をしても隠します。「安全第一」が定着するにはずいぶん時間が必要でした。

 工場の昼食があまりにもまずい。必要な値上げ(労使負担)はして改善してほしいという声が上がります。組合で議論していると、「工場へは仕事しに来ているのであって、うまい飯を食べにくるのではない」というのは先輩世代です。なるほど、少しくらい値上げしても、うまい飯が食べられるわけはない。まずい飯を改善しようというのですが、とにかく我慢強い。

 賃上げ交渉が進展せず、ストライキの方針が決定したさい、「会社は親も同然、従業員は子も同然だ。親に弓を引けるか」という声が聞こえてきました。これも先輩世代です。生活が苦しいと賃上げを切望しながらこんな声が出てくると調子が狂います。

 戦前の会社は押し付け家族主義で、賃金を払うことを恩恵のように考えている。従業員は「働かせていただくのであって、働くのではない」という理不尽な考え方を叩き込まれていました。一転戦後の会社は、「わが社は人を大事にします」というのが定番です。1960年代、会社家族主義を唱えるのは、時代錯誤の連中でしたが、頑強に居残っていたのは否定できません。

 賃上げ交渉詰めの段階で、組合副委員長が「会社といえば親も同然、従業員は子も同然」をぶって積み上げを要請し、会社に、「そんな古いことを言ってはだめ」と諭されてしまいました。組合内部では苦い笑い話として残っています。こんなのが組合のナンバー2にもいたわけです。

 会社は上意下達社会ですから、一般的に上司の指示に従うのは当然ですが、若者から見ると先輩たちの会社に対する態度は、全面的にご無理ごもっともな感じを否定できません。それだけに、彼らが揃って声を上げたのは大きな出来事だったと、いまも鮮明に記憶しています。

 勉強会で、自分の人生を振り返ってもらうと、みなさん口々に「自分の人生なんて、社内経歴や結婚、育児、持ち家などしか思い当たらない。考えていなかったんだなあ。」とお互いに共感していました。自分が何を考えて生きて来たのか。社内経歴が軸になって、年相応に結婚し、子どもを作り、家を持って――というイベント項目はありますが、自分がいかに生きるかなんてことは考えたこともない。当然ながら、社会や政治などは別世界の話です。

 早く言えば、とにかく会社一筋の人生で、自分の人生のための会社というよりも、会社のための人生だと振り返る人がほとんどでした。歴史の大きな流れでみると、戦前の「滅私奉公」が、戦後は「滅私奉社」へ。公=国家が、社に代わっただけだったのです。民主主義になって、自己中心の人が増えたというのは、国家主義を信奉する保守人士の言い分ですが、戦前の皇国臣民教育を骨の髄まで叩き込まれた世代は、民主主義になってもそう簡単には頭が切り替わりません。

 戦後世代のわたしは、戦後30年以上になるのになあ、と思いましたが、現実に頭が切り替わっていない。民主主義の教育もおこなわれて、日本を表面的に見れば民主主義が定着したようだが、個人のレベルに掘り下げると、人の意識というものは軽々に変わらない。社会の深層は表面上の変化とは全然別物である。なるほど歴史は大変なものだ。

 わたしは1944年生ですから、1951年から小学生です。低学年のころからあまり先生のお話を真面目に聞かなかったと自負(?)していますが、それでも、「自分の意見を持ちなさい」「思うところを堂々と述べなさい」というような言葉は大いに気にいりました。

 あ、そうか! 先輩たちは、自我を持つことを否定する教育を叩き込まれた。自我を持つ人間は抑圧され排除されたのが戦前でした。自我を持てば群れから追い出される。例の「滅私」こそが人の道とされたのです。敗戦で民主主義に代わったとしても、個人ごとに過去とこれからの勉強をみっちりしたわけでもない。30年以上過ぎても、日々変わらぬ意識状態が続いたのだから、変わるわけがない。

 たまたまわたしたちが企画した勉強会で、中高年同士が過去を振り返り、お互いに語っているうちに、自我という言葉は使わなくても、自我がなかったということに気づかれたのです。自分が自分であることが、自分の人生でしょう。自分がなかったんだと話されるのを聞いて、わたしは息詰まる思いでした。

 こんなわけで、わたしが作った人生設計論の柱は自我であります。ついでですから触れておきますが、いまあちこちでおこなわれる人生設計研修の大部分は、本人の自我を無視して、平均的ライフスタイルなるものを説明する内容になっています。これは、人生設計とは名ばかりの偽物というしかありません。