週刊RO通信

企業内リーダーシップの蹉跌

NO.1642

 リーダーシップは普通、指導者としての地位、任務。指導権であって、指導者としての資質・能力力量・統率力であると定義づけられる。ところで、現実は大きく違う。身近には、「うちの課長はリーダーシップがないんだよなあ」などと、ひそひそ話のネタでしかない。

 まったくフラットな組織は稀であるから、上位ポストの人は、配下を統率して、効果的に動かすことが建前である。これは建前であり、所詮理屈に過ぎない。現実はなかなかうまくいかない。「俺の言うことが聞けないのか」と威圧的発言が飛び出すようになるのはダメリーダーシップの見本だ。

 パワハラ騒動が非常に多い。この原因は、リーダーシップ不適応症状をきたしているからだ。上は下が無条件に自分の言うことに従うべきと考えるが、そうはいかない。下には下の理屈があって、上の言うことが納得できなければ動かない。上も下も(客観的に)期待される要件を満たしていないが、本人は相手を期待ラインで見てしまうから衝突する。

 衝突するのは、まだ救いがある段階だ。問題が表面化しているからである。しかし、それぞれの内部に沈潜して物言わぬ状態になると具合がわるい。面従腹背である。上っ面はリーダーシップが整った関係なのだが、本心は別のところにある。これでは組織的行動が空疎になるばかりだ。

 ボスたるもの、小から大に至るまで従順な配下を求める。悪意でひたすら突っかかってくる部下には手を焼く。逆に、なんでもハイハイと引き受けるのは愛い奴である。ただし、ハイハイボーイの大部分は、心ここに非ざる連中で、いざというとき裏切られるのがおちだ。

 わが国のあらゆる組織において、リーダーシップに関する考え方がしっかり形成されていない。おおかたは、関係者それぞれが自分流のリーダーシップ観(論ではない)を持ちながら要領よく、いい加減に過ごしている。知に働けば角が立つ、情に掉させば流されるという言葉にはなかなかの味わいがあるが、くれぐれも用心せねばならないのは、日々平穏の危険性だ。

 リーダーシップの実態は、わが国企業活動の停滞と大きな関係がある。リーダーシップを改善しないままで企業活性化は期待できない。わたしの見るところ、1990年代半ばから日本企業の大部分は不活性化のぬるま湯に浸っている。最近、業績は悪くないが将来を見越して人員削減に踏み切る企業が目立つ。いかにも先を見通したリーダーシップのごとき脚色がされるが、要するに、せっかくの社員の力が眠っているわけだ。

 1970年代まで、人員削減に着手するような人事部門はアウトだった。極論すれば、どんな逆境にあっても雇用には手を付けない。これこそ人事部門と人事マンの根性であった。人事の要諦は活用の論理である。個人の活性化を支援する。活性化した個人の総和が組織の活性化に通ずる。

 ここでは高邁なリーダーシップ論を展開する気はない。実用に役立つ考え方を絞って示したい。

 第一に、リーダーシップとは影響力である。影響力というものは、組織の全員が持っている。リーダーシップ(という言葉)には先入観があるのでこれを使わず、影響力という言葉に置き換える。Aが上司、Bが配下の関係とする。二人とも影響力を持っている。人はそれぞれ自立しており、機械ではない。生きている人間同士はすべて影響力関係にある。つまり、双方が影響力をおおいに及ぼし合うことが最大の組織的パワーになる。

 こんなことは至極当たり前なのだが、最近は「自立」の意義が見失われている。組織における管理システムが精緻化したことも関係がありそうだ。仕事のマニュアル化が隅から隅まで浸透した結果、マニュアル通りに行動することに慣れる。管理システムの精緻化には当初少なからず反発があったが、割り切って流れに身を任せればラクである。管理=非自立化ではダメだ。

 加えて、勉強⇒試験⇒正解の流れに慣れ切ってしまうと、正解探しが生業になり、さらには事大主義にはまる。自主性を欠き、勢力の盛大な方に従属して自分の存立を維持する傾向を強める。企業がはまっている事大主義を破壊しなければ組織活性化は実現できない。一人ひとりが自分の影響力を発揮する組織こそが日本企業再生の近道である。