週刊RO通信

「総理を逃した男」考

NO.1639

 「総理を逃した男」と揶揄されているのが国民民主党の玉木雄一郎氏である。側聞するには、なる気満々、かなりその気になっていたようである。実際、くちばしの黄色いうちから「総理をめざす」と公言する連中がいるし、それなりの地位にある玉木氏が総理になりたくないわけはなかろう。

 しかし、逃したのかどうかは考えてみる意味がある。少数与党の自民党に次いで大きな政党は立憲民主党である。首班指名では代表の野田佳彦氏を押し立てて政権を獲得するというのが当たり前だが、こちらも単独では過半数に届かないのだから他党の協力を得る必要がある。

 ところが国民民主も維新も、もろ手を挙げて賛成するような立場にはない。この間の国会を見ていると、両党ともに立憲民主党よりも自民党との親和性が高い。そこで知恵者(?)が、その気の玉木氏を担いで、「政権交代」という大義名分で維新も引っ張り込む狙いだっただろう。

 玉木氏は乗らなかった。思わく道理に総理の座を射止め、政権を担ったにしても、立憲民主党に比べればはるかに少数派である。立憲民主党が全面的に玉木氏を担ぎ続けるとは思いにくい。誘惑されて捨てられて、というあほな役回りにされてたまるか。と、思ったのではあるまいか。

 そうであれば、玉木氏は「総理を逃した男」ではなく、いまは、「総理になりたくない」のであって、総理の座を獲得する時期にあらずと判断したに違いない。これは決して逃したのではない。最善の賢明な意思決定であった。下手すると野党が分裂して、さらに政界を混乱に追い込む可能性もあった。

 立憲民主党の安住氏は、「数合わせが政治だ」と公言するが、そうだろうか。確たる展望なく局面を動かそうとするのはバクチである。トランプの性癖に感染したわけではなかろうが、失墜している日本的政治を回復させるには、とりわけ慎重かつ丁寧な思索が求められるのではなかろうか。

 「政権交代」という言葉があまりにも安直に頻繁に発せられるのはよいことではない。これは――政党は自分たちの信条・政策の実現のために政権獲得、あるいは政権への参与を図る団体である。だから政権を獲得する意志がない政党は、政党としての存在理由がない。――という考え方による。

 もう一つ、政治家は政治より選挙に活動の力点を置き過ぎではないか。「常在戦場」という。おおかたの議員は金帰月来、週末には選挙区へ帰って選挙運動をやる。高市氏が「働いて、働いて——」と決意表明したが、政治家は月月火水木金金を実践中だ。

 猿は木から落ちても猿だが、政治家は落ちればただの人ともいう。かくして、政治家とは年がら年中就職活動しているようなものらしい。しかし、これでは、政治をするために政治家になるのではなく、政治家であるために政治をするのであって、本末転倒、政治の堕落の本質のような気もする。

 維新の「議員定数削減」論は、このような現実を踏まえての提案だろう。しかし、全党挙げて政治活動に奔走していれば、おそらく議員は圧倒的に不足しているはずだ。選挙が本命のような政治家は、なるほど存在しないほうがマシである。つまり、維新の定数削減論は問題認識を間違えている。

 政権交代論と政治家が選挙に力点を置きすぎる問題は、国の政治の根幹的問題が放置されていることと重なる。選挙では、口当たりのよい、調子のよい政策を掲げて、まさに、政策とはスーパーの特売品並みである。だから、わけの分からない政党がむくむく台頭してしまう。

 政府の借金は首枷・手枷・足枷である。本当のところは身動きが取れない。かつて鳴り物入りで戦時国債を押し売り販売したが、敗戦で、まったくの紙切れになった。国がペテン師だから損害賠償を訴えるところもない。そこから戦後日本の人々は立ち上がってきた。時代が違う、そんなこと知りませんでは政治家は務まらない。

 財政再建を前面に出すと票が逃げる。というのが政治家の考え方だが、いつまでも借金し続けることは不可能である。この問題一つを考えても、軽々に「総理を目指す」などとほざくことはできないはずだ。玉木氏が総理にならなかったことは賢明だ。ただし、それが無責任に財源の裏付けのない政策を振り回すことであってはならない。野党の真剣さを問いたい。