筆者 新妻健治(にいづま・けんじ)
--「保守」だと喧伝される、高市政権が誕生した。しかし、その「保守」とは、支持獲得の動員装置であり、彼女は、「保守」とは言い難い言説を弄し、それを国民感情に接続させて支持を獲得している。
また、彼女の支持層である岩盤保守も、「保守」とは言い難い。総体として高市氏とそれを取り巻く人びとの思想は、社会的な分極・分断を助長している点で、「右翼」ないし「極右」と言うべきである。
そして、高市政権の本質とは、権力獲得を我執とする「虚構の人」による政権だと言わざるを得ない。このような政権の存在は、日本社会が不可逆的に衰微・崩壊の過程にある証左であろうか。
このような問題事態に瀕して、「私たち」ではなく、「私」を主語に、落胆に暮れることを排して、人間としていかに生きるかというライフビジョンのもと、自らの天分を解放して、でき得る限りの実践、そして社会的連帯の礎の一つとならなければならない。社会変革の主体としての労働組合には、いまこそ、そのための運動論の構築と実践が求められている。
高市政権は「保守」なのか
自民党高市政権が誕生した。巷では、高市氏が党総裁に選ばれた理由を、リベラルと言われた石破政権において、自民党支持から離れていった岩盤保守層を取り戻すという意向が反映されたのだとされている。
高市氏は、マスコミでは保守派と喧伝されているのだが、本当に「保守」なのだろうか。彼女は、支持獲得のための動員装置として「保守」を掲げているに過ぎないのではないか。その喧伝されている「保守」を構成する道具は、思うようにならない社会に対する不満、変化の激しさや孤立感に係る不安、そして、現状の政治に対する不信というような、国民感情に接続する言説であり、高市氏は、それを弄して、支持を得ようとしている。
また、岩盤保守と言われる層も同様、このような感情を回収できるところの国家主義や復古主義に、依存をする人びとであり、また、それをビジネスとして利用する人たちとの塊のように思える。そうであるならば、高市氏も岩盤保守層も、思想的に、「保守」だとは言い難い。
「保守」とは、近代における、人間の理性の過信からもたらされた、設計主義的な合理主義による理想社会の計画的な実現を説いた、ラディカルな革新主義に対抗して生みだされた思想であり、人間の理性を超えた伝統や良識、経験値に依拠した漸進的改革の重要性を説いたものであるからだ。(*1)
マスコミが、正しく定義をしないまま、言説空間に誤った情報を発信することは、民主主義を機能させるための前提を蔑ろにしていることになる。
高市政権の本質
高市氏の発言は、その総体においては、「日本列島を強く豊かに」「世界の中心で咲き誇る日本外交」「決断と前進の内閣」等々、やはり、感情に訴えるスローガンが頭に据えられている。
そして、施政方針の筆頭は、「強い経済」「経済優先」となる。現在の国民生活の苦しさへの配慮は僅かで、うがった見方をすれば、この方針は、財界の支持獲得に、その本質がある。
また、経済が良くなれば、自らの暮らしも良くなるはずだという、経済成長神話の残滓を抱く国民の感情を惹きつけて、その本質が覆い隠されている。
加えて、巨額の金融緩和により、超円安状態をもたらし、コストプッシュインフレを招き、国民生活を苦境に陥れ、国家財政の国際的信用を貶めてきた「アベノミクス」を、失敗ではないと高市氏は言い切ってきた。そして、あろうことか、その安倍路線を継承し、「サナエノミクス」(失笑)を、敢行するのだという。その手段とされる、「責任ある積極財政」とは、「アベノミクス」の失敗、財政規律の重要性を覆い隠す詭弁でしかない。
そして、憲法改正、スパイ防止法、軍備強化・防衛費増、排外主義的外国人政策等々、国民の不安や不信を煽る言説を利用し、政策の正当性を喧伝する。また、靖国神社の正統性を語り(歴史修正主義)、旧姓の通称使用(選択的夫婦別姓の否定・自由に生きる権利の侵害)、男系皇統の保守(似非伝統主義)等々、これまた、前述したような、国民の感情に接続させて、支持を惹きつけている。
これらのことを総括すると、高市政権とは、大衆の感情的な依存性による付和雷同を、支持獲得・権力保持の源泉としているところに、その本質を有しているように思える。
虚構の人としての高市早苗
そしてまた、これらのことは、国家主義・復古主義や排外主義を色濃くし、日本社会の分極・分断をもたらし、随所に、強硬的・対立的な人びとの存在や暴力的な動向が事象として現れていることを鑑みれば、高市氏の思想とは、やはり「保守」ではなく、「右翼」ないし「極右」であると言わざるを得ない。
高市氏は、その経歴を辿ると、政治家として、リベラル的な立ち位置から始まるが、間もなく自民党へ入党し、権力保持のために「右翼」を取り込み、「保守」を偽装して日本人を食い物にしてきた統一教会までも利用し、政治を私物化し、権力保持を我執とした、故安倍晋三へ私淑していくのだ。
併せて、経歴詐称疑惑、低所得者への侮蔑、放送法を巡る国会での虚偽発言、排外主義的言説の流布、また、ポピュリズム・新自由主義の維新からの抱き着きに応じ、維新に抱き着いた。これらに一貫して垣間見えるのは、手段を択ばぬ、執拗なまでの権力獲得への執念である。
それは、彼女が、人間社会にとって善きという本質的な理念は抱かず、自分のためだけに終始する、「虚構の人」の典型であることを示している。国家だろうが、組織だろうが、そのトップに立たせては、いけない人なのだ。
このような、政治家が生み出された背景には、権力志向の選挙互助会として形骸化した自民党の存在、また、それを生み出してしまった日本社会の問題にあると考えるべきだろう。
さいごに
高市政権の誕生は、自分自身が、そうであって欲しくはないという強い気持ちからか、激しい落胆となった。そして、高市政権を巡る問題とは、日本社会が不可逆的に衰微崩壊の過程にある証左であろうと、私の憂慮も深まっていく。
このような問題事態に瀕して、「私たち」ではなく、「私」を主語として、落胆に暮れることを排して、人間いかに生きるかというライフビジョンのもと、自らの天分を解放し、でき得る限りの実践、そして社会的連帯の礎の一つとならなければならない。
政策制度も、賃上げも、選挙活動も、それぞれに大事かもしれないが、この社会の問題は、それらの成果を相殺するだろう。いまこそ、労働組合に、社会変革の運動論の構築と実践が求められている。
<引用文献>
*1 「リベラル保守宣言」、中島岳志、新潮社、2013年
