週刊RO通信

ランクでいえば中隊長くらいかな

NO.1638

 放浪の画家、裸の大将と巷の人気を集めた山下清(1922~1971)は16歳にして、梅原龍三郎画伯が「ゴッホ、ルソーの水準だ」と評価した天才肌の画伯である。「兵隊の位でいうと」という言葉も巷の話題を集めた。まったく無関係だが、高市氏の所信表明演説を聞いてひょいと思い出した。

 「兵隊の位でいうと」高市氏は総理大臣であり、三軍の長であって、大元帥のそのまた上位であるが、失礼顧みず書くと中隊長くらいである。演説を聞いて、これで未来は万々だと感想を抱いた人がいただろうか。わたしは、雲の切れ間から光が見えるのでなく、暗雲さらに垂れ込める、の感だ。

 中隊長は、下士官を直接掌握し、指揮し、号令をかけるのが職責である。中隊長は原則として大尉の職分であった。中隊長を補佐するスタッフは中隊付き将校の中尉・少尉である。中隊長の下でラインを構成するのは下士官で、曹長・軍曹・伍長の三階級である。

 将校の養成機関としては、士官候補生制度があり、士官学校があった。これは初級将校の養成を目的とした。将校の高等教育機関は陸軍大学校である。これは参謀および将官を教育する。受験資格は、隊付き勤務2年以上で、品行方正、勤務精励、身体強壮かつ頭脳が優秀でなければならない。

 陸軍大学校の受験戦争は熾烈であった。合格者を出すことは連隊の名誉であるから、連隊長は受験者に格別の便宜を図る。他の連中が汗を絞って勤務(訓練)に励んでいるとき受験者は机に座って勉強に熱中した。

 筆記試験に合格すると、口頭試験がある。その際の判定基準は、着眼・決心・意志強固の三点であった。着眼とは思いつき、長期的展望なくとも、まなじり決して意欲満々、独善的詭弁を貫くのが意志強固というわけだ。

 長い前置きになったが、高市演説の全体的感想は、陸軍大学校口頭試問にさも似たりで、中隊長級だと感じ入った次第である。

 今回の総裁選、首相選をなぜやらねばならなかったのか。7月20日の参議院議員投開票から足掛け4カ月、国政はストップした。選挙で大敗したのは自民党の裏金事件が直接の引き金である。しかし、演説では知らぬ顔の半兵衛だ。国政を空転させた反省の言葉の一つもないのはなぜか?

 「日本と日本人の底力を信じてやまない者」だそうだが、何をもって底力だというのか。信ずるのはカラスの勝手とはいうものの、底力があるのに、1990年代のバブル崩壊から40年も沈滞しているのはなぜなのか。なにがなんでも信ずるという決心だけではお話になるまい。

 「世界の真ん中で咲き誇る日本外交を取り戻す」という。かつて咲き誇った日本外交があったとして、いつの時代で、いかなる外交を展開した時を指すのか。佐藤栄作(1901~1975)は曲がりなりにも沖縄返還、田中角栄(1918~1993)は、日中国交正常化を実現したが、それらを指すのだろうか。

 この言葉は高市氏が敬愛してやまない安倍氏の言葉の調子だが、当時が咲き誇っていたとは思えない。北方領土交渉は、騒動したが一人芝居で幕を閉じた。総括・反省もないままだ。まさかトランプと仲良くなったことを意味するのではあるまい。日米同盟対等論は「下駄の雪」することではない。

 それでも、米中の橋渡しをする力量があれば、ことは三国関係のみならず、世界秩序に多大な貢献ができるだろう。逆に、中国から離れるという手もあるが、それは米国の主導性に全面的に従属することと同一であって、外交どころか独立国の名目すら失いかねない。

 高市演説は、安倍政治を成功のテキストとして捉え、その後塵を拝する内容に見える。きちっとした総括・反省を放り出して、長く続いたことをもって夢を見ているのではないか。これでは日本はもっと下降する。さらに「日本再起」を掲げるがどんな状態か、容易にイメージできない。

 高市氏は愛国者を自任している。ただし、わが国は愛国心を吹かせて再起できるような状態にはない。月月火水木金金の精神主義は大将の器の着眼にあらず。「敵機を撃つのは機銃ではない。魂だ」(東条英機)というような、低次元の精神主義に陥るのは愛国主義とは無縁である。

 まずいテキストに依拠するのは意志強固ではない。意志薄弱である。