筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
高市自民からすれば、捨てる神あれば拾う神ありで、維新との連立はまさに救いの神であった。東条英機流なら、「連立とは数でするものではなく、精神でするものだ」というところだ。いろいろ約束事が並べられているものの、理屈は後から貨車に積むで、本気でやるのかどうか首をかしげたくなるものが多い。
維新からすれば、河豚は食いたし命は惜ししで、喉から手が出る連立であるが、格別慎重を期して取り組んだ感もある。ひとたび連立となれば、毒を食らわば皿までもという次第になるが、果たして一瀉千里に走るだろうか?
自民は勢いのある大阪維新と組んだつもりだが、実は失速中の日本維新と組んだのである。首班指名の後は坂道を転がるごとしにならぬように、ご両者いずれも目配り気配りおさおさ怠りなく苦心せねばなるまい。
外野席からみれば、まさに類は友を呼ぶで、維新のほうが公明より相性がよさそうだ。ただし、よすぎて高市ライトを制御できず、暴走する可能性がある。果たして吉と出るか凶と出るか。もちろん国民にとつてである。
維新が、力の入る衆議院議員定数1割削減は、しっくりこない。「議員は、どうせ仕事なんかしないのだから、減らしてしまえ」と道頓堀あたりで一杯やって気炎を上げているような感じでもある。
仕事をしない議員を前提すれば、1割減らしても政治が良くなる期待はできない。そんなものが身を切る改革の決意とはちゃんちゃらおかしい。政治をよくしてほしいという声はあっても、議員を減らすことがそれに通ずるとは考えない。むしろ、政治はうっちゃっといて、身を切る決意でやっていますと奇妙な理屈がのさばるだけじゃないか。
これ、へぼな経営者の人減らし論と同じだ。売り上げが伸びないからといって、人を減らせば、残った人々も一騎当千でないのは当たり前で、個人負担が重くなって、動きが取れなくなる。ますます売り上げは減る。同様、政治も悪くなる可能性のほうが高い。
こんなちゃちな政策をぶち上げて、身を切る改革でございますとか、日本の政治を改革するなどと吹かないでもらいたい。
高市氏は、安倍信者で、不出来のミクスを継承するらしい。ゼニゲバの株式市場は大歓迎だが、実力不相応に株価が上がって、「期待(気体)で買って事実(バブル)で売る」だけじゃないか。まったく学習効果のない諸君だ。
自民も維新も、「子供たちの未来のために」が大好きな常套語だが、すでにGDPの2倍になった国債残高を、さらに増やして借金で首が回らぬ未来を約束するというのだから、アゴが外れてものが言えない。
まだ、新しい政治なるものが始まっていないので、何とも言えないが、いままでの動きを見ていると、観念右翼とポピュリズムの結託は危なっかしくて仕方がない。身を切らなくてもいいから、頭の切れをよくしてほしい。お願いしますよ。
