NO.1637
ようやく、10月21日に臨時国会が開かれる。7月4日参議院議員選挙告示から数えると、国会は109日間の空白である。
参議院議員選挙の16日間、これもあれもさして変わり映えせぬ、低調な生徒会的演説を聞かされた。投票日には肩の荷を降ろした心地がした。選挙は民主主義の土台であるが、わたしは、なんともけだるい選挙戦だった。
ほぼ予想通りに自民党の惨敗、直後、石破総裁が辞任発言をしたしないと、すったもんだがあったり、石破コールが立ち上がったりした。
7月7日に石破氏が辞任を発表して、自民党は総裁選挙へ。総裁選告示9月22日、投開票10月4日。党員916000人の大所帯だから仕方ないが、党高政低、国会空白は決して短くはない。
総裁選の候補者がまた代わり映えせず、在庫一掃セールみたいと厭味も出る。候補者諸氏が党内融和第一主義だからか、討論会をやっても精彩を欠く。後半に至り、さざ波的騒動が沸いたが、無事開票、高市早苗氏が総裁に当選した。党内が盛り上がったにしても、蚊帳の外はしらけっぱなしだ。
高市氏は、10月7日に党役員人事を発表した。論功人事だ、麻生のパペットだ、キズモノの復活だと、蚊帳の外にはブーイングだ。
その後、ハプニングが発生した。耐えがたきを耐え、忍び難きを忍んできたのかどうかは知らぬが、公明党が連立離脱を表明した。
自民、立民からのお誘いで、キャスティングボードを握っているかに見えた国民・玉木氏の愛想笑いが消えた。参議院選挙後初めての渋面。一方、小泉期待がしぼんで、つれなき素振り風であった維新が浮上、首相をめざす高市氏にとっては時の氏神、救いの神という次第である。
これで10月21日の臨時国会召集が実現しそうだ。109日間の空白は、今後の国会で生きてくるだろうか。そう願いたいのはやまやまである。
この間国会審議はカラッポでも、政治家諸氏はなかなか気合の入った立ち回りで、議会討論に比べると、はるかに活性化している(ように見える)。政党は政権獲得をめざすものではあるが、権力獲得が目的ではない。あまねく社会生活が円滑・安定的に維持されるように力を尽くしてもらいたい。
その意味で、政治家は社会のリーダーたる存在である。リーダーは、指導力・統率力を与えられる。しかし、概してわが社会では、リーダーとオペレーターを同一視しており、おおかたはオペレーターでしかないようだ。
言うまでもないが、指導力・統率力を発揮するための資質・能力・力量は、選挙に当選しても自然に発生するものではない。目の前にある機械を円滑に操作するのはオペレーターである。政治家はそれでは政治家たりえない。
何が必要か。われわれが生きる世界は無常である。世界は森羅万象変化し続けて停止することがない。政治家が対象とするのは、操作手続きの固定した機械ではない。無常の世界を受け止めて人々の社会生活の維持向上に取り組むことである。安直な役割ではないのである。
高市氏を例にとる。思想は相当な保守だという。政治的表現をすれば、国家主義・全体主義である。国家主義者は、国家ファーストであって、その権威と意思に絶対の優位性を認める。
ところで、わが国は民主主義である。民主主義の根幹は個人主義である。個人の自由と人格の尊厳を立ち位置として、社会や集団を個人の意思的集合と考える。保守政治家は、しばしば意図的に個人主義を利己主義と同一化した発言をするが、これは完全な間違い。利己主義は、むしろ国家主義のほうで強く現れる。常に個人が国家によって圧迫されやすいからである。
高市氏は、仕事ファーストで休まず頑張るらしい。東条英機(1884~1948)も大変な働き者で、街のゴミ箱を覗いたり、至る所で演説しまくった。采配を揮うというより下士官みたいな仕事ぶりであった。あまりせわしない働きぶりでは、下士官レベルの知恵しか出ない。
働き過ぎのオペレーターでは、ご本人が燃え尽きる危惧があるだけではない。場当たり主義、その場しのぎの政治が続くことによって、ますますわが社会の将来が心配になる。大きな構想力、想像力を駆使して、安倍政治がもたらした目下の停滞を打ち破ってもらいたい。
