週刊RO通信

チイチイパッパ チイパッパ

NO.1636

 公明党が自民党との連立から離脱した。党内でかなり厳しい議論が交わされたようだが、この決断をわたしは有意義だと思う。参議院議員選挙後2カ月以上にわたり、自民党は危機だ、出直しだと騒動し続けているが、そもそも問題の本質が何もわかっていない。メガネが曇っている。

 いまの本当の問題は、たかが自民ごとき政党の危機ではない。安倍内閣の時代、いやもっと以前から政治の危機である。政治家が、もっぱら自分の選挙第一、自分の党第一の考えで行動しているから、わが政治は慢性的危機にある。ただし、どなたさまも政治危機については慢性的不感症である。

 わが政治危機を真正面から対峙すれば、仮に人々から首相ポストに就くよう懇請されたとしても、とことん固辞して逃げ回るだろう。にもかかわらず、黄色いくちばしで「首相をめざします」などとほざくのだから、志が高いというよりも身の程知らずの見本だ。

 まさに小学校の学芸会の主役並みに首相ポストを考えている。認識が甘いどころの話ではない。首相の座に座るためには多数派工作せねばならない。高市氏の場合なら、真っ先に公明へ駆けつけて支援をお願いするのが手順である。ところが、まず玉木氏に接近した。

 これだけでも公明がプッツンする理由は十分だ。公明は、自民党内派閥ではない。しかも、高市氏は公明を罵倒する麻生氏のパペットだ。腹の底から下駄の雪だとなめている。これでカチンとこなければホトケさまだろう。おそらく方々の憤怒は半端でなかったに違いない。

 家を建てる棟梁たろうとすれば、手順・段取りをしっかり弁えねばならない。外野席の感想としては、高市氏は日本精神のエキスパートだそうだが、御幣で家は建てられない。おりから石破首相所感なるものが出た。高市氏は熟読玩味するべきだ。和製トラスは、トラスになれない可能性もある。

 石破首相所感の肝は、斎藤隆夫(1870~1949)である。いわゆる反軍演説を議会議事録から削除したのは、議会が機能不全をきたしていたからだ。わが国の民主主義は議会政治であり、議会政治の質量こそが国の政治の基盤である。しかるに、現状はどうなのかと言いたいのである。

 読売社説(10/12)は、(辞め行く者の)「メッセージの発出に見識疑う」と突き放すが、わたしは、それなりに時宜を得た含蓄ある見識だと思う。現実政治に慢性的不感症にあれば、そこは見えない。過去の歴史について語りながら現在の政治を突いている。ズバッと言わないのが石破流だろう。

 安倍70年談話は、自虐史観(❔)でいつまでも子供たちを悩ませたくないものだそうだが。安倍自身が放漫財政で人気取りして大きなツケを子どもたちに回した。安倍70年談話は所詮国内向け理屈に過ぎない。他国の怒りは外交次第でいつでも点火する。ご都合主義の下手な理屈に過ぎない。

 わが政治危機を生み出し続けるのは、政治家も政党も選挙第一で、国民生活は上の空、肝心の政治は全面的に場当たり主義である。わが国の政党で、人々が将来の生活や国のあり方をイメージできる青写真を掲げているものはない。チイチイパッパ チイパッパ連中ばかりである。

 公明党が26年間の連立与党に訣別したのも、選挙で党勢が後退したのが最大の引き金だろうが、それでも漫然とぬるま湯に浸っていることと比較すれば大きな決断である。この際、公明だけではなく、その他の党も性根を入れ直して、まともな政党をめざしてもらいたい。もって他山の石とせよ。

 平和の党を自任してきた公明は、大局からすれば立憲民主に近い。むしろ国民民主や維新のほうが自民に近い。首班選挙で、誰に投票するかよりも、これからの政党再編成の意味が大きい。そもそも政治に妥協は付き物だが、だからといって妥協を本旨とするようでは、政党の資格がない。

 人間の行動(B)は、主体(P)と状況(S)の関数である。公式に表現すればB=f(P,S)だ。Sによって右往左往するのが場当たり主義だ。政党たるものは主体をこそ磨かねばならない。首相はたくさんいるが、斎藤隆夫のような「生涯一議員」は決定的に少ない。

 アメリカの下駄の雪をしている日本で、危機を意識して生活しているのは沖縄の人々だけだ。これも決して忘れていただきたくない。