論 考

清沢洌と中国

 高井潔司さんの集広舎ホームページ連載「清沢洌と中国」の最終回が掲載されました。全文は少し長いので、ここでは最初の部分を一部転載します。

 浮ついた歴史修正者が自民の総裁となりましたが、それについて考えていただくためにも、きわめて有意義な内容です。

 清沢洌の愛国主義|集広舎

 以下、内容を一部転載します。

                               編集部

清沢洌の愛国主義

筆者 高井潔司(たかい・きよし)

 柳条湖事件から満州占領、満州国建国とその承認、上海事変へと、矢継ぎ早に日本が攻勢を強める中、中国は国際聯盟に対して提訴し、対立の舞台は外交戦に移った。日本は頑なで拙劣な外交によって孤立し、国際聯盟脱退へと突き進む。清沢洌はその過程を真っ向から批判した。

外交の禁制を侵す内田外交を批判

 1932年12月、中国側の提訴によって、満州事変に関する国際聯盟特別総会審議が始まる。清沢は中央公論1933年3月号に「内田外相に問ふ」を、また日本の国際連盟脱退後の5月号には「松岡全権に与ふ」を発表し、内田外相の焦土外交で機能不全に陥った日本外交を痛烈に批判した。

 まず清沢は、内田康哉外相に対して、「今までわれ等は、事外交に関するが故に、そしてわが国が重大なる国際的岐路に立つが故に、出来るだけ力を一にして、この難局を切りぬけることに務めて来た。時にあなたの政策に対して雲のやうな疑惑が沸いたことがあったけれども、その時にさへわれ等は時局の重大さに鑑みて、好意ある沈黙を守って今に到ったのです。しかしながら差し迫る国家の安危と、われ等の良心は、これ以上にわれ等をして沈黙することを許さない」と、批判の決意をあらわにした。その上で歯に衣を着せぬ論調で内田外交を切って捨てた。

「あなたの外交を通して根本的な謬りは、余りに断定的であり、余りに固着的であり、また常に最後の死線を国民に約束してしまうことであります。あなたは議会において、就任怱々、焦土となっても国権を守ると云はれました。焦土となっても国を守るのは軍人の領分であって、あなたとしては身を賭しても、さうした事態を持ち来たらしめないことを、その職能とせねばならぬ」

 まるで外相に向かって、外交とは何かを、基本から講義をするような調子である。そして、具体的に満州事変をめぐる内田外交の大きな誤りとして、①リットン委員会が北京にあって、その報告書を起草中に満州国を承認してしまったこと、②ジェネバの聯盟会議に松岡洋右氏を送ったこと、を挙げる。

 ①に関して、清沢は「その後貴方はただ頑張り通した。『一歩も引かない』とか『最小限度の要求』とか、およそ外交辞書に発見出来る強硬文字で、あなたの口を借りないものは一つもないといってよかった」と指摘し、「それは正に絶対的な背水の陣を布くものであって、日本の外交的地位を釘づけにしたものであった」と批判する。

 清沢に言わせれば「外交といふものには、二つの禁制があります。一つは『断じて』とか『常に』とかいふ断定的な言葉を使はないことであり、第二は決して結果を急がないことである。この二つの禁制に背いた外交は、過去において、長い眼でみると屹度失敗してゐます」ということになる。外交とは交渉であり、その都度妥協によって対立を解消していく。それが最初から背水の陣を布いて一切の譲歩、妥協を排してしまったら外交にならない。清沢は、「世界始まって以来、かくの如く大胆なる声明を外交開始当初になした外交官が他にあろうか」と皮肉る。

焦土外交ではなく円満無礙の外交を

 だが、日本の新聞は内田外交を「日本の正義」と、賞賛する。清沢はそのことを重々知った上で「なる程、国民の輿論は貴方を支持して居り、あなたは尚人気の中心にある。……国内において外相としてその外国政策が人気のあることと、世界において日本が人気あることとは全く別です。否、事実は正反対であることは、誰に分からなくでも外相の任にある貴方には分かってゐねばならぬ。もし貴方が真に国を愛するならば――それを誰が疑ひませう――所謂国論に抗しても、不人気なる政策を行って、知己を十年――然り、十年で十分で長きを要しない――の後に求める意志はないか。これについてあなたの切実なる熟慮を求めることが、この書の目的なのです」と、批判の語気を一層強める。

 ②の過ち、松岡全権の派遣も大衆受けするものであった。しかし、清沢は全く状況認識ができていないと、内田をこう批判する。

「考へて見て下さい。日本は満州における自衛的行動から、世界から無類の侵略国のやうに見られていた時です。その上に内田外相が焦土外交を叫んでゐたのです。この時に日本が世界の舞台であるジェネバでなすべき外交は、円満無礙の外交——すなわち平和的空気を示す外交であるべくして、××として炸裂する外交であってはならぬ筈です。日本が世界から侵略国の汚名を受けてゐればゐるだけ、せめてその外交は臆病なほど平和的でなければならぬ。それが日本を窮地から救ひ、世界の諒解と同情を集むる所以である」

 実際、松岡全権のやったことは、「あなたの焦土外交の感化を受けて、常に背水の陣をしき、……如何なる場合にも、まづ持ち出したのはオブストラクションの手であり」、日本を孤立に追い込むばかりだった。

 清沢の分析では「元来、聯盟の決議に不満足なのは日本ばかりでなく、支那も亦然りである。支那がその決議をその儘受け入るやは疑問であった。然るに今のところ、日本のみが聯盟の和協努力を妨げてゐるかの如き印象を世界に与へてゐるのは何故であらうか。私はあなたに、国策あって外交なき結果であることを信ぜざるを得ません」とまで言い切る。

 この論文にはいくつもの伏字があり、検閲も厳しかったはずだが、危機感から出発した批判の舌鋒は鋭いものがあった。さらに、清沢の批判は、新聞や大衆世論にも及ぶ。

「私の解するところによれば、わが国民は誤まれる教育のために、外交を戦争と心得てゐます。かれ等の重大なる関心事は勝つか敗るかであって、国家百年のために幸福か、不幸であるかではない」

 日本が孤立状態に陥っていることに、「幼稚なる日本の新聞の社説などが手伝ひます。近頃国際問題を論じる新聞の社説などは、まるで論理になっていません」と新聞批判も忘れない。だが、清沢は「私の貴方に対する不満は、この国民の弱点を是正しないで却って利用していることである。強硬でさへあれば喝采する国民の心理を乱用して、焦土外交をいひ、向ふ見ずの自立外交を主張している点である。そしてそこに何等の目標と、抱負と、政策なくして、ただ猪突して、日本を全く孤立に陥れた」と指摘してやまない。そして結論に至る。

「私は国家の前途を、心から憂えるものとして貴方に祈願する。あなたはこの重大岐路に立つ日本を救ふために、日本の輿論に背を向ける意志はないか。大外交家が日本で人気よかった試しはない。今こそ大外交家といはれる小村外相は、ポーツマスで平和条約を結んだがために、東京の焼打と国民的反感の標的となったではないか。私は貴方がせめては小村侯の決意と見識とを持たれることを祈るものなのです。もし貴方にこの決心がなかったら、私は国家のために貴方が辞職さるることを要望する」

 誠に小気味よい内田批判だが、それは敗戦後の今だからそう感じられるのであって、内田外交は大衆や新聞の喝采を浴びていたのだ。その中での清沢の内田批判は刮目に値する。

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