筆者 新妻健治(にいづま・けんじ)
――有害言説が、日本中に流布している。それが、政治にまで大きな影響を及ぼし、民主主義が、深刻な事態に至っている。この事態にあって、まず考えるべきは、それを為す人びとの動機と、それを生み出す背景を追及することだ。
その動機とは、現代に生きる人びとの、さまよえる自己認知からの承認欲求の充足、ないしは、それにより抱く問題感情の解消であり、また、その動機を利用して利益を得るというところにある。
そして、これらの動機を生み出す背景には、人間性が求めて止まない自己認知と、それを巡る時代の流れ、また、利潤蓄積に手段を択ばぬ資本主義の問題がある。
このような事態を放置すれば、社会は崩壊に瀕する。私たちは、漠然とした問題意識でいることを忌避し、自分と不可分な問題として、自分自身の生き方に還元して考え、自らの行動としていかなければならない。そうなることを、私は、自分の信念のもと、労働組合の運動論として構築していきたい。
有害言説の流布
虚偽・虚言、差別、排外主義、歴史修正主義、陰謀論、誹謗中傷等々、有害言説(動画等が媒介するものも含めて)が、SNSはもとより、マスメディアまでも汚染し、日本中に流布している。有害言説とは、社会的分極化や分断を助長することなども含め、社会や個人に悪い影響をおよぼす言説のことを言う。
このような有害言説を発信する者、それを受容して支持し、拡散する者、また、自分の意にそぐわない言説を受け入れることなく、それに対して、執拗に心無い攻撃を加える者たちがいて、それらが瞬く間に連鎖拡大していく状況がある。
この有害言説は、政治にも強い影響を及ぼしている。以前、SNS上での膨大な有害言説による野党批判を、与党議員が企業に依頼していたという疑念が浮上した。また、先の参議院選挙では、この有害言説をもって、有権者を扇動する政党が支持を大きく伸ばした。加えて、今般の自民党総裁選では、根拠なき情報による排外的政策の争点化や、SNS上における架空の自候補支持や他候補批判が流布されたと問題になった。これらのことは、民主主義にとっては、極めて深刻な事態だと考える。
有害言説流布の動機
このような問題を引き起こしているのは、今に生きる人間だということだ。ゆえに、有害言説の発信・受容・支持・拡散・攻撃等を為してしまう人びとの、動機の所在を追及する必要がある。
私は、これらの行為の動機の根底にあるのは、人間とは自己認知しがたい存在であることともに、自己認知を求めて止まない存在であるとことだと考えている。それは、後に触れるが、人びとは、変化する時代状況の中で、得難い自己認知を求めて、承認欲求を満たすために、もしくは、真正面から自己認知を求めることの苦悩や苦痛を回避することを、その動機としているのではないだろうか。
二つ目に、このような有害言説の流布の背景には、人びとの注目や関心の契機を、経済価値に転換するという、アテンション・エコノミーの存在がある。まさに、SNSは、このアテンション・エコノミーにおける資本蓄積のための有力手段となっている。そして、この仕組みに組み込まれたアルゴリズム(情報処理の手段)は、有害言説の流布に、さらに拍車をかけている。
このような仕組みを利用し、人びとは有害言説により、直接の経済的利益を獲得することを、ないしは、間接的に社会的地位の獲得や有利な立場を創り出して利益を得ることを、動機としている。この動機を有する人びとは、知ってか知らずか、自己認知に係る人びとの動機を利用しているのだ。
動機を生み出す背景―自己認知をめぐる時代の流れ
私たちは、近代において、身分社会の頸木から解き放たれるとともに、資本主義市場経済により共同体からの離陸を強いられ、交換可能な存在となり、自己認知の代替物(身分や共同体における立場)を失った。
そこから、さまよえる自己認知は、皇国という幻想の共同体神話に、また、富国強兵(強く豊かになりたい!)という国家目標に回収されていくことになる。その帰結が、侵略戦争と、その破局としての敗戦であった。
このことについて、私たちは、なぜ我が国は侵略戦争に突入し、破局に至ったのか、そうならないためには、どうすべきであったのかと、まず、自己と向き合うことをしなかった。だから、私たちは、人間として、これからをいかに生きるべきかという、思想的成熟を果たすことにも至らなかった。
そして、依然としてさまよえる自己認知は、「強く豊かになろう!」という経済成長という神話に、再び回収されることになる。しかし、その後、経済のグローバル化や世界的な産業構造の大転換という潮流は、この日本の経済成長神話を打ち砕いていく。そして、人びとの神話に回収された自己認知は、再びさまようこととなる。
このような時代状況にあって、人びとは、思うようにならないことへの苛立ちや不満、そして、経済的地位や立場を失うことへの底知れぬ不安に苛まれる。この事態に加えて、情報技術や機器の発展は、私たちを膨大な情報流通のるつぼに据えて、これらの問題感情に、強力に拍車をかける。
人びとは、なぜこうなるのか、そして、自分はどうしていくべきなのかと、自分と向き合うことなく、問題の原因を、社会や体制、ないしは他者に求め、それらに対する極度の不信や、苛立ちからの攻撃的な感情を抱くようになる。
そういった状況が、有害言説の流布と影響に、大いに機能する。例えば、人びとは、有害言説を利用して、衆目を集めることで自己に対する承認欲求を満たそうとする。また、人びとは、自らの問題感情を、有害言説によって他責にすることで、また、その言説に依存し、自分の意に反する言説を執拗に攻撃することで、自らの溜飲を下げ、自己と向き合う苦痛を消し去る忘我の快楽に浸る。しかし、いずれの行為も、根本的な問題の解決に至ることは無いのだから、その行為は繰り返され、常習的な行為となる。
動機を生み出す背景―資本主義の問題
前述した、アテンション・エコノミーが拡大する背景には、資本主義の非物質的転回という世界的な産業構造の転換がある。それは、資本主義における利潤獲得の手段が、物的生産を中心とするものから、情報やビジネスモデル等、非物質的なものへと移行していることを示している。
この時代にあって、人びとは、情報機器によってSNS等の情報プラットホームを利用し、商品の購入や娯楽、知識・情報の獲得等々、利便性を大いに享受できる。しかし、それらの行動がもたらす膨大な行動情報は、その仕組みを運営するプラットフォーマーにより、収集・分析され、膨大な利潤へと転換されていく。
このように、企業が、人びとの私的な行動からの膨大な情報を収集・分析し、予測的に商品化して収益を上げるという経済モデルは、「監視資本主義」や「プラットホーム資本主義」と呼ばれている。企業は、有害言説に歯止めをかける自主規制をおこなうも、充分には至らないのだ。つまるところ、この有害言説の流布には、利潤獲得に対して手段を択ばないという資本主義の本質的問題が、影を落としている。
社会は崩壊に向かうのか
哲学者のカントは、共同体社会の理想を「目的の国」として、その考えについて「他者を手段としてのみ扱うのでなく、目的として扱え。」といった。つまり、人びとが、人間いかに生きるかという観点から、自らの唯一無二の人格の完成を目的として生き得ることを、そしてそれを、人間相互に尊重し合って為し得るという、人間の尊厳を最高の価値とする社会を理想としたのだと、私は考える。
有害言説を流布する人びとの動機とその背景にあることも含めて、この問題事態を総括すれば、人びとは、我執に拘泥し、他者を手段としてのみ扱う社会を生み出していると言える。これは「目的の国」の真逆であり、これでは、社会の分極化と分断が不可逆的に深まり、社会は崩壊の局面に瀕することになるのではないだろうか。
また、前述した資本主義の非物質的転回という経済の構造転換は、その産業構造の特性から、多くの雇用を生まず、経済格差の二極化を進展させ、それはまた承認の格差に至る。そのことにより、多くの人びとが、資本主義経済社会の中で、依存してきた経済的地位や立場、それに伴う社会的評価という居場所を失い、自己認知の代替え物を失うことになる。そして、このことに対する苛立ちや不満、そして不安を抱える人びとの規模は、相乗的に増大していく。
問題解決に向けて
AI(人工知能)に質問を試みた。「AIには信念がないよね?」と問うと、AIは、「その通りだ。私には信念が無い。」と答えた。AI全盛が喧伝される時代に、人間たり得るとは、どういうことなのかを、あらためて考える必要がある。
人間とは、信念を抱く存在である。人間は本来、この世に生まれ、成長とともに、自分自身の内的な確信や価値判断を、唯一無二の信念ないしは想いとして抱くようになる。そしてその信念ないし想いを遂げたいと考え、人生を生きようとする存在なのだ。
そのようなことが、相互に可能な社会が、最も人間の持てる天分が最大限に発揮され、健全かつ発展的である。それは、人間が、より人間らしく生き得る社会ということになるだろう。ゆえに、どう考えても、問題の根本的な解決は、あらためて、明晰かつ判明に、私たちが、ここに向かうのだとすべきなのだ。
労働組合に係る運動家として
これまで述べたような社会の現実とは、私たち一人ひとりの生き方の総体として出現する。ゆえに、私たちは、漠然とした問題意識のままでいることを忌避し、まず、問題を自分自身に還元して思索し、それを、自らの行動としなければならない。
私は、他者が認めるか認めないかは別として、自分自身を労働組合に係る運動家でありたいと、自己定義してきた。その運動とは――人びとは、人びとが抱くもやもやとした「苛立ちや不満、不安」の原因が、世の中で目に見えるようになり、「これが問題だったのか?」「 これを変えれば、社会は変えられるのだ!」(実現可能性の媒介)と感動したとき、行動(集合的行為)に移す。――(*1)という考えである。
だから、今を生きる人びとが、この問題の事態を、自分と不可分な問題として、また一人では成し得ないこととして連帯し、知性的に捉え、思索を深め、自らはどうするか、いかに生きるべきかを突き詰め、そして、ともに行動に至るようになるという運動論を、私は構築していきたい。そうすることが、私の信念であり想いだからである。
<引用文献>
*1 小熊英二、「社会を変えるには」2012年、講談社現代新書(加筆翻案して引用)
