週刊RO通信

敗戦を「総括せぬまま」歩んだ

NO.1627

 なぜ戦争総括しなかったのか。一億玉砕を呼号しつつ、それにしては、かの玉音放送一つでくるりと方向転換した。圧倒的多数は、天皇の「聖断」に唯々諾々従った。「戦争が終わってほっとした」という後日談が多い。

 わたしもなんだか、ぽかんとするしかなかった。わたしは昭和の歴史を勉強しながら、ずっと疑問を抱えてきた。後追いで理屈を考えてみる。

 敗戦直後は、誰もが生活再建に駆けずり回るしかなかった。戦火に生き延びても、絶望的暮らしから生き延びるのは自分の力でしかない。占領下で、新しい秩序に適応しなければならない。一方、公職追放の報道をみて、裁くのは自分だ、主権在民なんだから――と考えた人は多くはなかっただろう。

 生活苦から飢餓克服の自発的大衆運動にも火がつき、GHQが労働組合の育成を指示したので、労働組合が雨後のタケノコといわれたように次々に誕生した。GHQを解放軍と見た面もあり、幻の革命を求めて官公庁労働組合を中心に数百万の労働者が、1947年2月1日を決行日として性急にゼネストに走った。前日、マッカーサーの禁止命令によって挫折した。これまた肩透かしみたいなものだ。

 1945年8月15日、降伏手続きを終えた鈴木貫太郎内閣が総辞職し、17日に東久邇稔彦内閣が成立した。戦後最初の再建は皇族の手に委ねた。

 8月28日の記者会見で、東久邇首相は、敗戦原因について、急速な戦力の崩壊、広島(8月6日)長崎(同9日)への原子爆弾投下、ソ連参戦(同8日)、戦時統制の厳しさ、国民道徳の低下などを列挙し、続いて再建の途として、「私は軍、官、民の国民全体が徹底的に反省し、懺悔(ざんげ)しなければならぬと思ふ。全国民総懺悔することが、わが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩であると信ずる」と語った。

 支配者の指揮するままに戦争体制遂行にひたすら忍従してきた一般国民としては、「はて、自分は何を懺悔しなければならないか」と、思わなかったであろうか。そんなことを口走る不逞の輩はいなかったらしい。戦争を始めたのは間違いなく支配者であり、止めたのも支配者である。戦争指揮をとったのも支配者である。懺悔するとすれば、「唯々諾々従ってきたこと」しかない。

 8月30日、朝日新聞はこの会見を社説に取り上げた。いわく、「正に一億総懺悔の秋、しかして相依り、相扶けて民族新生の途に前進すべき秋である」と諸手を挙げて歓迎の見識を表明した。

 支配者の戦争責任にフタをして、責任を全体に分担させるのだからまことにご親切極まりない。その重大な理論的欠陥を見過ごして、生まれ変わるためにみんなで懺悔しようと優等生的記事を描いた社説子もまたあっぱれである。いかに、明治憲法下において、人間が無視されていたか。生きるか死ぬかで敗戦を迎えても、思想的慣性が容易に切り替わるものではない。

 もちろん、戦争責任を論じている暇はないという見方もできる。それは間違いなく国民相互に新たな摩擦を発生させるだろう。出口の見つかりにくい迷路に踏み込むことなく、敗戦に区切りをつけた「英断」であったとみることもできる。いずれにせよ、支配者の戦争責任を問う声は出なかった!

 しかし、全国民の存亡をかけた戦争、その敗戦に際しても歴史的な学びがないとすれば、そのような国民は、いったい何から学ぶことができるのだろうか? これは、皮肉や嫌味が言いたいのではない。実際、いまの日本人は歴史といえば、敗戦後の民主主義が無意識の土台になっている。

 過去を顧みるのは辛く苦いことである。しかし、土台がヤワな上に高層建築はつくられない。われわれは民主主義に「した」のではなく、民主主義に「なった」のである。本気で学び考えずして、「なった」ことのひ弱さを克服できない。フタだけではボロが出る。いまは、だいぶボロが出ている。

 フランス文学者・渡辺一夫(1901~1975)は、「軍国日本は一夜にして文化国家に生まれ変わった」。しかし、「日本が明治時代に引き始めたびっこをまだ引き続け、何かの方向になだれ落ちないとどうにもならぬ」のではないと晩年に書き残した。この明察は重たくて忘れがたい。敗戦後80年、戦乱の昭和初めから100年、明治初めから158年、反省しなければ未来への責任は担えない。