筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
ラジオで平和祈念式典を聞いた。
猛暑のなか、全体で7千人くらい参加されたそうだ。
被爆者は10万人を切った。これは時の流れだから仕方がない。被爆体験そのものでなくても、核兵器に関する問題意識と思索を深めて、祈念式典が反核、反戦、平和へのエネルギー源になりうるように、広島市長や県知事が力の入ったスピーチをされた。
被害者体験はなにものにも代えがたい訴求力を有するが、体験することが望ましいことではない。体験したくないことを体験者から学ぶことに依存するのでなく、われわれ一人ひとりの思考力が勝負になる。
何を思索するのか? 核抑止力についてである。
核抑止力くらい幻想的な概念は他にはない。地球自体を宇宙からかき消すほどの危険極まりない武器をせっせと作った。幻想的というのはきれいすぎる。要するに、自分が何をしているのかわからないほど、人間はバカだ。それを、科学技術だ、技術の粋だと自画自賛するに至っては、まったくつける薬がない。
そんなもので戦争を抑止できるわけがない。破壊力を抑止力と読み替えるような言葉力など、屑同然である。
巨大な破壊力を持つから、相手が恐れ入るという論拠などない。たとえば、プーチン、ネタニヤフ、トランプといった連中が、理性的かつ合理的な判断力をもっているだろうか。そもそも、理性的かつ合理的な判断力をもつ人間が、武器による平和を鼻高々アピールするわけがない。
突然、周囲の人に対して凶器を振り回す輩がいる。それらと、政治家連中と本質的絶対的違いを認めることはできない。わたしは、核兵器や巨大な武器を前提に平和・安全を語るような人間を信頼することはできない。
被爆者の目とは何か? それは、なにものにも代えがたい素直な目である。死の瀬戸際から立ち直って訴え続けてこられた人々の「目」を、後に続く世代として自分の中に育て続けねばならない。
