論 考

問題の黙殺、官僚的不作為の大罪

筆者 新妻健治(にいづま・けんじ)

 ――二つの労働組合との出会いがあった。それぞれに事情の違う立ち位置にあるが、いずれも、これからどのように取り組んで行くべきなのかについての示唆を求めていた。

 関わってみて感じたことは、このような立ち位置の労働組合が数多存在するはずなのに、日本の労働組合総体として、あるべき労働組合の存在意義と価値が発揮できるという意味での正しい働きかけや助力をするという主体を、私は感じ取ることができない。

 この事態を総括すれば、労働組合の停滞衰微という問題の黙殺、官僚的不作為の大罪だと言わざるを得ない。

 この問題状況にあって、私自身は、できるかできないかを問うのでなく、自分自身が、変化の端緒を生み出す主体の一人であることを決めて、具体的に行動し続けたい。   

ある労働組合との出会い・その1

 私が組合役員のころの部下から紹介があり、結成されて間もない労働組合の三役との関わりを持つことができた。この組織は、労組結成からこの間、概ね組織運営の体制が整いつつあり、労使関係も順調に推移しているという。

 この労働組合に対する私の働きかけは、これから、働く仲間とともに、どのような課題に向けて取り組んで行くことが、自らの存在意義と価値を発揮することに結び付いていくのかということだ。また、そのように取り組むことは、役員始め働く仲間の人生にとっても意義と価値のあるものになるだろう。ゆえに、そのことを、組織の中長期のビジョン・目標として定め、戦略をもって運動として展開して行くべきではないかと提起した。

 彼らが主体的に求めての出会いではなかったがゆえに、彼らの内発的な動機を阻害しないように、私は、より慎重に面会を重ねながら、2年ほどかけて話を進めてきた。

私からの問題提起

 彼らに提起したことの具体的な骨子は、次のようなことだ。まず、労働組合とは、どのような存在として在るのかという基本的な認識を抑えて欲しいと伝えた。それは、労働組合が、働く仲間の思いの凝集点であるという原理、また、一人では成し得ない協同の課題を、集まって、責任を分け持ち、皆で解決するために組織するという原点、そして、みんなで話し合い、みんなで決めて、みんなで実行する組合民主主義が、運動・活動の基本であるということだ。それらを踏まえ、働く仲間の協同の課題とは何かを突き詰め、ビジョン・目標を定め、戦略と連関する政策の体系を構築して、取り組んで行こう。そして、以下、3つの取り組み課題を示唆した。

1.組合民主主義を徹底すること。

2.労働組合の基本機能(雇用を守る、労働条件を維持向上する、働きがいを高める)を現実にする力を持つこと。

3.労働組合の社会的存在意義と価値を踏まえ、社会に開かれた存在となること。

 以上、これらのことを、働く仲間の主体性と連帯による創造性を、最大限に発揮することができるようにして、実現していくのだとした。

ある労働組合との出会い・その2

 求められて、小規模な労働組合の委員長と面会する機会を得た。私の論考を読んで関心をもっていただいとのことだ。

 聞けば、彼は自ら手を挙げて執行委員になったという。そこから、我が組織の活動の停滞状況を問題視し、その解決に向けた申し入れを委員長にした。

 しかし、それは受け入れられず、彼は委員長交代に向けて自ら動き、結果、それをやり遂げて、現在があるとのことだった。

気にかかった問題

 彼が、組合員向けに、労働組合の概要と活動の基本方針を紹介しているSNSのサイトがある。私は、これを読み込んで、問題を整理し、彼との面会に臨んだ。私は、その内容から気にかかったことを、いくつか彼に伝えた。

 一つ目に、全体として、生々しい職場の問題状況や、そのことに係る働く仲間の切なる思いが、読み取れない。労働組合は、そこから働く仲間との共感を呼び起こし、問題解決に向けた運動の発端を築き上げていくのではないだろうか。ところが、主要な取り組みテーマは、悪いことではないのだけれども、彼が関心のあるものに執心した構成となっている。

 彼以前の体制での活動の停滞状況を打破したいという、本人の強い思いを感じるところは随所にある。しかし、自分が批判してきた旧体制とは違うことを強調するあまり、「新しい…」「新たな…」「従来とは違う」との打ち出しが散見されるのだが、働く仲間の切なる思いと彼の関心には、大きな隔たりがある。

 二つ目は、労働組合の原理・原点・基本(前掲参照)というものをどう認識しているかということが、ほぼ読み取れない。それが顕著に表れるのが、「労働組合が…」という主語の設定がある。組織を擬人化して語るところの含意は、労働組合とは、委員長はじめとする執行部(特に委員長の感が強いのだが)であり、組合員は提示された施策を享受する立場にあると読み取れてしまう。つまり、組合員が運動・活動の主体ではなく、顧客化してしまっている。

 三つ目に、全体が論理的に構成されていない。前述したように、労働組合は、その原点である、働く仲間の協同の課題を明らかにし、このことの解決に向けた取り組みの論理として、戦略から体系化された政策方針として構成されなければならないと、私は考える。

 しかし、昨今、喧伝される耳あたりの良い横文字の用語が多用され、それをどのような意味で、またはどのように定義をして用いているのかも明らかにされず、その相互関係もよくわからないまま、基本的な方針とされている。

 蛇足だが、ステレオタイプの批判的な組合観や労使関係観を使い、自分の主張の正しさを語るところも、払拭されるべきだ。

今回の出会いで感じたこと

 私が出会った、二つの組織のような存在は、少なくないだろうと思う。また、これらの組織に限らず、自らの組織をどのような方向に向けて取り組んでいくべきか、またリーダーとしてどう牽引していくべきなのか。本質的な考えに十分には至らない存在も、数多あるだろうことは想像に難くない。

 話は飛躍するかもしれないが、日本の労働組合総体として、このような数多ある組織に対して、労働組合の存在意義と価値が発揮できるという意味でのあるべき正しい働きかけ、ないし助力をするという主体を、私は感じ取ることができない。なにか、労働組合の停滞衰微という深刻な問題が日常ごととなり、深刻にとらえられないという事態が蔓延している。

 以前、論考(2024年10月)で紹介した連合・連合総研の「労働組合の未来を創る」という報告書にも、それが如実に表れていた。日本の労働組合運動を牽引すべき連合ないし傘下の産別の不作為は甚だしいと、思わざるを得ない。

 そのため、問題意識を正しくさえ持てば、傘下の組織に対する、働きかけと助力という問題解決の機会を数多得ることができるのに、膨大な機会損失をもたらしていると、私は考える。現状を総括すると、方針は下すが、問題を知り、問題解決には立ち向かわないのだから、問題の黙殺、官僚的不作為の大罪だと、私は言いたい。

 このことは、労働組合の問題に留まらない重い罪だ。経済価値至上の現代社会において、資本主義は民主主義の基盤を掘り崩している。労働組合という拮抗力(countervailing power)の不在は、人間のための社会を弱体化させ、不可逆的に社会の問題を深刻化させているからだ。

さいごに

 グループ労連の会長時代、傘下40余りの労働組合に、組織の主体性を毀損しない形で、私は相当に、今回のような働きかけをしてきた。その経験から、組織の取り組みの方向性を変えることの難しさを強く感じてきた。また、それ以上に、正常に組織がガバナンスされることに、力が削がれてしまったことを思い出す。

 日本の労働組合が抱える問題の現状を克服していくことが、どれだけ困難なことか、想像に難くない。だからこそ、日本の労働組合は、問題の現実を真正面に受け止め、総力結集して、事に当たらなければならないとの、私の思いは募る。

 今回の出会いと働きかけが、結果を生むかどうかは定かでない。しかし、自分が求め続ければ、なんらかの機会がもたらされることはあるのだと分かった。この問題状況にあって、私自身は、できるかできないかを問うのでなく、自分自身が、変化の端緒を生み出す主体の一人として、具体的に行動し続けたい。