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サミット(G7先進国首脳会議)が終わった。首脳18人が雁首並べた記念写真を眺めながら、主催カナダがカーニー首相はじめ大奮闘したとは考えつつも、ついつい見出しのような気持ちにとらわれた。トランプの顔がないのだけが上等だと思ったりするのも否定できないが—
第1回サミットは1975年11月15日、フランス大統領ジスカールデスタン提唱によってランブイエ宮殿に各国首脳が集まった。メンバーは、フランスに、西ドイツ首相ヘルムート・シュミット、イタリア首相アルド・モロ、日本首相三木武夫、イギリス首相ハロルド・ウィルソン、アメリカ大統領ジェラルド・フォードの6人でG6だが、のちにカナダが加わった。
会場のランブイエ宮殿は、ランブイエ侯夫人が自邸を開放して文芸サロンを始めて、僧侶・将軍・政治家などを招き、劇作家コルネーユ(1606~1684)ら芸術家との交遊によって、フランス・ルネサンスの母胎をつくったという歴史的な場所である。
お互いが相違を解決し、励まし合う。世界経済発展のために生産的意見交換をする。民主主義、国際的協力を発展させよう。多国間貿易交渉、発展途上国との連携を深めよう――などの目的を掲げ、首脳同士の非公式フォーラムとして開催された。
世論は歓迎というより、どんなものかねという雰囲気だった。敗戦後の日本外交は国連中心主義を唱えてきた。現実には自民党歴代政権は対米関係でやっさもっさねじり鉢巻きだったが、われわれは直接にはわからない。国連があるのだから、もっとそちらに力を注ぐべきだと思っていた。
しかし、いま、1960年代後半からの10年間を眺めると、サミットが始められた歴史的意義が浮かび上がってくる。
当時、世界中が注目したのはベトナム戦争である。1960年から75年まで続いた。アメリカのベトナム戦争介入は64年8月2日トンキン湾事件(アメリカのでっち上げ)から本格化し、65年2月7日の北爆(北ベトナム空襲)開始で激化し、留まるところを知らずであった。
67年7月30日、国連ウ・タント事務総長が、「ベトナム戦争は共産主義の侵略ではなく、民族解放の戦い」と主張し、世界中でベトナム反戦デモが展開された。ベトナム和平協定が結ばれたのが73年6月21日、75年4月30日にようやく終わった。アメリカの国際的威信は音を立てて崩れた。アメリカの経済力も大きく棄損した。ニクソンが71年8月1日、金とドルの交換を停止し、72年2月21日に訪中したのも戦争の反映である。
72年6月5日から16日には、スウェーデンのストックホルムで国連人間環境会議が開かれた。これは68年スウェーデンによって提唱されて、世界114カ国1200人の政府代表が参加した。これは、48年の「世界人権宣言」の具体化の一つだともいわれる。
環境に関する権利と責任、天然資源・野生動物の保護、有害物質の排出規制、海洋汚染防止、開発の促進と援助、さらには核兵器など大量破壊兵器除去と廃棄の合意への努力などが討議された。6月5日を「世界環境の日」とすることも決定した。国連ワルトハイム事務総長は、「産業革命の進行に重要な修正を加える時代の転換点」と呼んだ。
インドのガンジー首相は、「貧困こそが最大の環境汚染ではないか。世界は一つというが、命は一つ・世界は一つというべきだ」と語り、「地球資源を無制限に使用してきた先進工業国に環境汚染の責任がある」とする途上国の批判も強く出されて、南北問題が大きく浮かび上がった。
ランブイエ・サミットはこのような地球的雰囲気において始まった。多国間主義、国際連帯を求めたはずであった。
トランプは多国間枠組みが大嫌いであり、自由民主主義に背馳している。自由と民主主義の価値観を大切にするために、サミットは活動せねばならない。ウクライナ支援にしっかりした声明を出さず、無謀な戦争を挑むイスラエルに支持を与えるような、とんちんかんな声明で、結束を優先するというのではダメだ。アメリカの独断偏向に掣肘を加える強い意志をもったサミットでなければ、空虚の次には有害な場になってしまう。