論 考

「不適切な判断 おわびします」だけでは

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 横浜市の機械メーカー大川原化工機に対する不正輸出疑惑の捜査が違法だったとして、東京都(警視庁)と国(東京地検)に合計1億6600万円の賠償を命じた5月の東京高裁判決について、11日、都と国は上告しないと発表したので高裁判決が確定した。

 同社社長ら3人が2020年、軍事転用可能な噴霧乾燥機を無許可で輸出した嫌疑で、逮捕・起訴された。初公判直前21年起訴が取り消された。

 逮捕前聴取では違法性を否定したが、反論すれば罪を重くされると思い、取り調べでは否認を明らかにしなかった。それが保釈却下の理由にされる。つまりは、罪を認めざるを得ない状態に追い込まれるのが人質司法の特徴だ。

 会社は一貫して違法性を否定していたが、朝日新聞は、会社側が容疑を否定しているという事実を報道せず、警察の発表を流し続けた。拘留は11カ月間に及び、何度も保釈請求したが、否認しているという理由で却下された。

 朝日新聞は、「不適切な判断 おわびします」という、社会部長によるおわびを12日紙面に掲載した。当初、朝日は警視庁の発表や見立てに沿って報じた。会社の主張を取材していたのに記事に反映しなかった。起訴取り消しを受けた後も、サイト上に逮捕容疑の記事が残っていたことなどについて、関係者におわびするという内容である。

 もちろん元凶は、功を焦って見えるものも見なかった東京地検にあるが、報道による世論形成とその影響を考えると、こちらも半端な反省だけではすまない。

 おわびでは、「警察発表に基づいて報道せざるを得ない面もありますが、捜査機関の監視を怠らず、嫌疑をかけられた側の主張も丁寧に伝える『対等報道』を改めて心がけます」という。しかし、容易ではないような気がする。

 大本は、「疑わしきは罰せず」で、犯罪が確かに証明されるまでは有罪を言い渡してはならないという。しかし、これが頭に叩き込まれているかどうかは自分自身を考えてみても危ないものだ。容疑者の段階で、たいがいは犯人だと決めつける心理が作用する。

 新聞社が、ひとつひとつの事件について気を抜かずに検証できるかどうか。容易ではない。個人が頭の中でいろいろ考えるのとは違って、新聞は、事件を吹聴するのが生業である。それがまた新聞の力でもある。

 報道としては、方法的には捜査当局の発表を受け入れざるを得ない。他社に先駆けたい気持ちが確たる事実かどうか以上に、まず情報を流すという傾向もあるのではないか。取材した内容の裏付けを取る前に、当局の発表に依拠して、いろいろ修飾語を付け加えることもありそうだ。「対等報道」を心がけるといっても、逮捕されてしまえば、被疑者側の主張は無視されやすい。

 技術論では、ただちに当局発表の内容の信ぴょう性を確かめられないのは当然である。

 ところで、捜査当局は、真実とは何かを知るために捜査するというより、どうしても被疑者をホシとして自白させようとする。捜査に公平を期すというが、その前提は、いわゆる犯人扱いである。疑わしきは罰せずであっても、疑うことに手心を加えるわけはない。

 そうであれば、報道が「対等報道」を目指すならば、こちらは前提として犯人扱いではない、つまり無実の視点を持たねばならない。報道が、被疑者は無実だという視点に立てば、被疑者を犯人と見込む当局の発表内容を、当局とは異なる視点から考えられる。

 非常に素人の原則論であるが、冤罪を防ぐ手立ては、当局の見立てを明確・意識的に懐疑することが一番である。

 刑法は、どういう行為が犯罪とされ、犯罪に対してどのような刑罰が科せられるのかを定めた法律である。それによって、共同生活の秩序が保護されているという安心感と、同時に刑罰による国家の干渉をうけず自由に行動できる範囲を示すのが目的だ。

 そこで憲法第31条には、「何人も法律の定められた手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」と書かれてある。その手続きが恣意的に行われるのであれば、手続き自体が手かせ足かせになってしまう。

 刑罰の乱用を防ぎ、国民の権利を保障せねばならない。冤罪は捜査当局の(かりに意図的でなくても)恣意がまかり通るところから始まるのである。とすれば、報道が、当局とは異なる視点による体制を構築することが、冤罪事件を防ぐために不可欠ではないだろうか。

 「不適切な判断 おわびします」だけでは、お詫びにならないように思う。