論 考

やり過ぎじゃないの長嶋報道

筆者 高井潔司(たかい・きよし)

 読売ジャイアンツの長嶋茂雄終身名誉監督が6月3日亡くなった。新聞、テレビは当日からニュース番組だけでなく、特集や連載を組んで、大々的に報道した。NHKは告別式のあった8日には、NHKスペシャルで長嶋を取り上げていた。巨人ファンでも、長嶋ファンでもない私には、もううんざりだった。

 テレビは消して、録画していた番組を見た。しかし、この日のプロ野球の結果が気になって再びNHKのスポーツニュースにチャンネルを合わせると、今度は告別式の模様が映し出され、王貞治、松井秀喜、中畑清など参列者の弔辞やコメントが次々と流された。野球の結果はというと、巨人戦は勝利もホームランも、長嶋さんに捧げられたという具合だ。

 この人達のコメントは、死去直後の弔問の折りにも、くり返し放送された。確かに、日本の戦後を象徴する人物であったが、ここまで扱う必要があるのか、大いに疑問に感じる。これほど扱うならば、長嶋茂雄という人物が、戦後のどの部分を象徴するのか、掘り下げて取り上げてもらいたいものだ。

 私は最近、BSテレビ東京で「戦後80年 美空ひばり沖縄で歌う」という番組を見た。決してひばりファンでもないが、ひばりと沖縄ってどういう関係があるのか、気になって録画しておいた。

 ひばりは横浜生まれで、戦時中、横浜大空襲を経験している。その体験から、アメリカの上陸作戦で大被害を受けた沖縄に痛く同情し、返還前の沖縄でコンサートを開催した。当時の数少ない動画に加え、コンサートを聞いた沖縄の人々の感激の回想などを伝えていた。ひばりは多忙な日程を割いて、沖縄から移民の多いハワイやブラジルでも公演している。そしてひばりは1974年の第1回広島平和音楽祭にも出演し、「一本の鉛筆」という反戦歌を披露した。ひばりは政治的な活動をしたというわけでない。平和を望む当時の人びとの気持ちを表現したものだったと言えよう。

 長嶋は、野球の楽しさをアピールできたその平和な環境に対してどんな思いを持っていたのだろうか。少しでも、そんなところに関心を向けた報道があっただろうか。かつて日米安保条約改定をめぐって、激しい反対デモが巻き起こった時、岸信介首相(当時)は「私は声なき声に耳を傾けねばならないと思う。(デモの)参加者は限られている。野球場や映画館は満員で、銀座通りもいつもと変わりがない」と言った。日本国民のノンポリ化に長嶋は間接的に貢献したのかも知れない。でもそれは私の勝手な憶測だ。これほど大騒ぎするなら、報道はこんな点にも踏み込むべきではなかったか。

 一連の報道には、長嶋の監督時代の不振には全く触れていないのも不思議な光景だった。

 何よりも私が不満なのは、長嶋のデビュー戦についてどこの報道にも言及がなかったことだ。国鉄スワローズの金田正一に4打席連続三振を喫したという鮮烈なエピソード。私は何も彼の悪口を言おうというわけではない。4三振だったが、長嶋はフルスィングで立ち向かった。それがその後の彼の活躍の源泉だったということ。

 その人物が時代を象徴する大物であればあるほど、訃報記事も美談づくしであってはならない。

 最後に告白しておくと、「4番キャッチャー高井くん」という高校球児だった私のあこがれは「南海ホークス野村克也」だった。野村とは対照的な長嶋に対して、辛過ぎるのはそのせいかも知れない。ただ私の言い訳は、長嶋に対してではなく、報道に対して辛いのだということである。