NO.1618
読んで、それなりに理屈を理解しても、理屈だけでは役には立たない。しみじみ、つくづく考えさせられる。率直にいって、まだ読後感が十分ではないが、ひとまず思っていることを書いておこう。
『聞き書 緒方貞子回顧録』(岩波現代文庫)は、緒方さんの教え子である野林健、納家政嗣のお二人がインタビューしてまとめ上げた。
緒方貞子さんは、1927年生まれ、2019年に92歳で亡くなった。近所の書店で、緒方さんの博士論文『満州事変 政策の形成過程』(岩波現代文庫)を手にしたら、並んで『回顧録』が目に止まったので一緒に求めた。
『満州事変 政策の形成過程』は、緒方さんがカルフォルニア大学バークレー校で政治学博士号を得たときの論文で、1964年英語で出版、66年に邦訳が出版された。丁寧な取材と思索が重ねられている。
満州事変からの太平洋戦争は、概して軍部悪玉論である。国内では経済危機の問題解決として満州権益に対する期待が加速した。当初関東軍が指向した満州共同体には、理想的側面があったが、満州権益論が強くなるにつれて、当然ながら欲しいのは権益だけという露骨な流れになった。国内の経済的社会的不安を緩和できない、当時の国家指導者に対する強い不満、鬱屈(うっくつ)した思いが、下剋上として現れた。
緒方さんは、満州事変の原動力となった帝国主義を、社会主義的帝国主義と定義した。関東軍は、満州に理想郷を打ち立てようとした。軍もまた、大正デモクラシーや左翼思想の影響を受けていた。いわば、右と左の急進主義によって軍人が指導者を下から突き上げたという分析である。
既存体制に対し、財閥中心の資本主義と政党政治に対し、そして官僚に対する反発が非常に強かった。関東軍は、「満蒙問題解決案」「満州占領政策の研究」など行動プログラムを用意して、既成事実を積み上げた。しかし、軍中央も、政府の側も効果的な解決策を提示せず、軍事力の上にヴィジョンと行程表をつくって行動する勢力が事態を動かした。
緒方さんは、政策決定の実質的権限が現地の少壮将校の手中にあり、それが戦前無責任体制を破綻させたとする。公式の権威が空洞化しているところへ、関東軍の反抗、挑戦によって、政治が破壊し、日本は太平洋戦争へ転げ落ちていったという見立てであろう。
さて、緒方さんが1991年から2000年まで国連難民高等弁務官として、2003年から2012年までJICA理事長として活動し立派な足跡を残したのは誰もが知っている。『回顧録』でも多くのページが割かれている。淡々として語られているが、すさまじい活動の足跡に圧倒される。
緒方さんの活動の源泉は、すべてが『満州事変』の思索から始まったと思う。「中国とどう向き合うか」という質問に、「日本が自分自身にどう向き合うか」から出発しようと提案する。自分の立ち位置をしっかり押さえて、ヴィジョンをもって立つことが重要だという。経済成長で豊かになると次に何を目標にするか見えなくなりやすい。国をよくしようというモチベーションを維持するのは難しい。経済大国になってから日本は迷路にはまっている。
自分と異なる存在への好奇心、尊敬、畏敬の念が不足していることを指摘される。異なる意見をぶつけ合って自分の意見を鍛え上げる、学び合うことが大事だ。平凡に聞こえるかもしれないが、われわれに最も欠けていると思う。緒方さんは現場主義を提唱したが、問題をただ見るのではなく、自分の問題とせねばならない。非常に困難な難民問題や、途上国の開発問題に取り組むには人間一人ひとりにこだわらねばならない。
人間の安全は、生活基盤とコミュニティを建設することだ。責任ある政治、人々が参画する政治を、性根を据えて追求せねばならない。
緒方さんは無謀とも思えるほど大胆に、国連難民高等弁務官や、JICAの国際活動を引き受けた。いや、無謀ではない。自分に出番が来た時逃げない。人間の安全保障のために格闘する。戦前無責任体制を認識した上は、求められた時、全精力を投入する。いわゆる政治家ではないが、責任ある人間として状況にかかわる。逃げないという言葉は発せられてないが、同時代のわれわれが真剣深刻に考えねばならない態度である。