論 考

歴史観を堅実に

筆者 小川秀人(おがわ・ひでと)

 わが労働運動の冬の時代に、幾多の困難を乗り越え路を切り開き、その人生を全うした先駆者の中で、自伝を残しているのは、歴史上二人しかいないと思う。鈴木文治(1885~1946)と西尾末廣(1891~1981)である。

 前者は『労働運動二十年』、後者は『大衆と共に 私の半生の記録』である。後々、学者やジャーナリスト風情が第三者の目で見た評論は数多あるが、今となっては、というか、今こそ、労働運動家を自称・他称する者ならば必読の書ではないかと思料する。

 なぜ「労使(資)協調」という言葉を忌み嫌うのか、あるいは労働運動と政治が切っても切り離せないのか、また、なぜ日本で企業別労働組合が主流となったのか。修羅場を潜った人にしか表出できない至言によって想像を働かせることができる。

 女性解放運動はどうであろうか。わたしが印象深いのは、岸田俊子(1863~1901)と福田英子(1865~1927 『わらわの半生涯』)である。岸田は若くして亡くなったが、まだ交通機関が整備されていない当時、男尊女卑打倒を掲げて全国を遊説した。福田は岸田の演説に触発され、15歳で小学校の助教となり女性の覚醒を促す活動をおこなった。

 二人の運動は自由民権運動の衰退とともに急速に萎んでしまうが、この先駆者たちの行動が数十年後、青鞜社を興す平塚らいてう(1886~1971)はじめ、神近市子(1888~1981)、山川菊栄(1890~1980)、伊藤野枝(1895~1923)、赤松常子(1897~1965)らの後進に少なからず影響を与えている。

 神近市子は愛人(無政府主義者の大杉栄)の殺人未遂で服役するものの、1953年の衆議院議員選挙において65歳で初当選。以後5回の当選を果たし、赤松常子らと売春防止法の制定などに尽力した。

 歴史は地続きである。観念的なダイバーシティやジェンダーなんとかなどのぽっと出の時流に乗っている様は、いかにも底が浅いどころか底が抜けてしまっていて、聞いているほうが恥ずかしくなる。ましてや、いま携わっている者どもが、いかにも何程かの権力があるかのような立ち振る舞いで急激に社会を変革しようとする態度に危険な匂いを感じてしまう。

 そこで、西尾末廣が残した言葉をあらためて噛みしめたい。

 ――すべて世の中のことは、幾多の試行錯誤をのりこえ、一つ一つの経験の積み重ねによって漸進的に成長発展して行くものであるから、人間は自分の肌で体得した経験と信念をあくまでもたいせつにすること、時流に迎合したり、既成の概念にとらわれないで信念と勇気をもって行動すること、このことを胸に置いて進んで欲しいと思う。――(西尾末廣著『大衆と共に』)