論 考

敗戦後労働運動の出発―3

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

55年体制

財界の危機感

 社会党が統一したのは1955年10月13日、保守合同によって自由民主党が発足したのは11月15日である。2大政党ではあるが、自由民主党2対社会党1という頭数関係であった。

 1954年年初に造船疑獄が発覚した。業界人、運輸省幹部、国会議員が続々検挙された。大物では岡崎勝男外相・佐藤栄作自由党幹事長・池田勇人自由党政調会長らの任意捜査が進み、4月19日、検察は佐藤幹事長の逮捕状請求を決めた。21日、犬養健法相が検事総長に対して指揮権を発動した。捜査は崩壊した。これ、法治国家ではない。

 保守合同の動きが進んだのは、ようやく戦後から立ち上がり、自信を回復してきた財界が、身内の綻び、絶え間ない保守政党間の紛糾、労働組合の攻勢という事態において、なによりも国民の政治的覚醒を畏れたのである。支配層にとって、被支配層の政治的覚醒ほど恐ろしいものはない。財界(大企業)の意を呈した政治(派閥)・官界の「鉄のトライアングル」が確立されていく。

保革の立ち位置

 保守陣営には、吉田を軸とする陣営対公職追放復帰組の確執があった。前者は、日米安保下において再軍備せず(少なくとも積極的ではない)、後者は自主憲法を制定して再軍備を推進する考え方である。

 そこで左右社会党としても、保守対抗の戦線を統一しなければならない――という認識に至ったのは上等なのであるが、左右間には共産主義と階級闘争を巡る見解が対立していた。左派内部においても、親中ソを平和勢力とする論と第三勢力論(中立主義)の確執があった。

 綱領決定に際しての折衝が延々半年近く重ねられた。たとえば、① 日本は米国の従属国か、不完全な独立国か。② ソ連の独裁政治をどう見るか。③ 階級的政党とするか否か。④ 安保条約廃棄による非武装中立の是非。結局、双方の顔を立てる形で妥協がなされたが、こんなことでは政党としてまとまった活動ができるわけがない。1960年1月24日には、西尾末広(1891~1981)らが、民主社会党(後の民社党)を結成して分裂する。

 保守陣営も革新陣営もいずれも一枚岩とならないのは当然である。ところで保守陣営には少なくとも戦前の支配層としての回帰位置がある。一方、革新陣営には帰るべき位置は存在しない。労働組合がポツダム組合といわれたように、いわば、革新政党も本質はポツダム政党なのである。

 ならば、徹底して民主主義を考える。民主主義政党なのだから、被権力者の立場を押し出す。階級政党かどうかなどは言葉の遊びになってしまう。いかにして圧倒的多数の被支配層たる国民の立場に依拠するか、そして、民主主義を徹底的に推進する――それをこそ論じなければならなかった。

 外交において、たとえば親中ソを押し出すのは親米に対する対抗ではあっても、それ自体が真の独立論とは相いれない。安保廃棄を論ずるのであれば、いずれの国に対しても、2国間軍事同盟を結ばないということでよい。外交とは生き物である。反共主義も反米主義も、それを教条とすれば、動きが取れなくなるのは当然である。

 1954年6月、周恩来首相(1898~1976)は「平和5原則」を打ち出した。① 領土主権の相互尊重 ② 相互不可侵 ③ 相互内政不干渉 ④ 平等互恵 ⑤ 平和共存――まさに、このような壮大な外交方針を確立できるオツムが、わが国の政治家には存在しなかった。これは保革を問わずである。わが国の外交方針に、性根が入っているだろうか。

国連総会

 1956年12月18日、国連総会は全会一致で、日本の国連加盟を決定した。日本代表として挨拶した重光葵(1887~1957)は、次のように語った。「日本は国連の義務を忠実に遂行する。世界の緊張に対して、日本は東西の架け橋になって、平和の推進に寄与したい」。この言葉は格別よろしい。しかし、その後の日本の為政者の行動はいかがであったか。重光が全然下心なく、誠意を込めて語ったとしても、まさに安倍氏の積極的平和主義が対米追従外交を覆い隠すように、二枚舌外交を重ねてきたのが戦後の政治・外交史である。

春闘・組合の55年体制

 多くの労働組合が連帯して賃金引き上げの交渉をやろう。そうすれば企業内の壁を克服し、さらに賃金水準の社会的波及もできる。これが春闘の基本的な考え方である。1955年、総評太田薫副議長(1912~1998)が提唱して、8単産共闘(炭労・合化・私鉄・電産・紙パ・全金・化同・電機)から始まった。当初は参加人員73万人である。1956年1月、総評は安房鴨川で賃金闘争集会を企画した。200人も集まれば上等と考えていたら参加者が1,000人を超えた。総評・中立労連による春闘は一気に400万人参加の大イベントとなった。

 いわゆる春闘方式による賃金引き上げは、結果的には労働生産性の範囲内に収まっているが、資本主義制度における利潤と賃金(コスト)の関係において、労使それぞれが知恵を搾り、鎬を削って解を求める関係を徐々に構築した。この点は地味であるが、関係者が重々認識しておきたい。交渉が労使共に意味をもつならば、労使関係も発展する。

 1955年は、総評大会で高野実事務局長が国労出身の岩井章(1922~1999)と事務局長ポストを競い、岩井事務局長が誕生した。岩井は国鉄機関士から組合活動に入った。総評内部には、高野の政治偏重的指導に不満があったという。しかし、岩井事務局長に交代しても、総評が政治闘争から手抜きした形跡はない。安保闘争でも、やや政治化した三池争議でも、重要な役割を果たした。

安保反対運動

 1960年の安保反対運動も、正確な総括があるわけではない。少ない枚数でまとめるのは、当時心身を削って運動された方々に対して不遜な振る舞いになりかねない。しかし、あえて、できるだけコンパクトに要約し、問題を指摘したい。

安保条約に対する見解

 安保条約については、保守内部に、片務性・不平等性を無くして双務的・平等なものにするべきだとする意見があった。他方、革新側は安保条約を廃棄して軍事的中立をもたらすべしと主張した。そもそも憲法からすれば、2国間軍事同盟は明確な違反であり、敵を想定するから、仮想敵とされた国にすれば、仮に日本にその気がなくても警戒せざるをえないし、反共主義の総本山である米国との軍事同盟であれば、米国の戦争に日本が巻き込まれる危惧がある。つまり、安保条約の肯定・否定論は、出発点から噛み合わない。

 社会党・浅沼稲次郎書記長(1898~1960)は、そこを突いた。1958年9月30日衆議院における質問で「安保条約を廃棄して、日米ソ中による集団安保体制にすべし」と主張した。翌1月、フルシチョフ書記長(1894~1971)は「極東太平洋地区に核禁止区域を作ろう」と応じた。さらに、3月15日、周恩来首相は「社会党案を支持する」と表明した。平和攻勢が前進していたが、保守陣営は、根っからの反共主義者揃いだから、全然問題の次元が噛み合っていない。岸信介首相は、1957年6月、訪米した際、「国際共産主義は依然として大きな脅威である」「自由諸国が引き続き力と団結を維持すべきである」とした日米共同声明を発した。重光の東西の架け橋論などカケラもない。

安保反対の前哨戦

 岸は1957年2月25日に首班指名を受けた。徹底した反共・改憲・再軍備論者である。4月、防衛2法改正・自衛隊員10,000人増員、5月、国防会議招集、1958年10月8日、警察官職務執行法改正案を第30臨時国会に提出した。社会党は警職法改悪反対国民会議(加藤勘十)を組織、労働団体・市民団体(医師会・山岳団体なども)が参加し10月末には全県に共闘組織が確立した。ジャーナリズムも反対の論陣を張った。11月5日に600万人が抗議スト、全国1,000万人大衆行動、さらに15日、全国1,500万人大集会で抗議した。22日、岸は国会通過を断念した。戦前警察国家体験が国民の強い警戒感を引き出した。

安保論争煮詰まらず

 日米の安保改定協議は1958年10月から開始した。自民党内部も政局がらみで一枚岩ではなかったが、1960年1月6日、日米協議が決着した。2月5日、岸内閣は新安保条約・日米地位協定・付属文書を第34国会に提出した。国会論戦は、おおまかにいえば、安保肯定「反共一致結束論」、安保反対「積極的中立主義」、中をとった「安保段階的解消論」である。2月19日から安保特別委員会が審議入りした。とくに問題となったのは、① 条約の適用範囲、② 個別的自衛権と集団的自衛権、③ 事前協議の実効性、いずれも煮詰まらなかった。

安保改定阻止国民会議

 1959年3月28日、安保改定阻止国民会議(水口宏三事務局長)結成。警職法改悪反対国民会議の組織を引き継いだ。全部で134団体、幹事団体は13、社会党・総評・中立労連・平和と民主主義を守る東京共闘会議・日本平和委員会・日本原水協・護憲連合・日中国交回復国民会議・日中友好協会・人権を守る婦人協議会・全国軍事基地反対連絡協議会・全日農・青年学生共闘会議。共産党がオブザーバー参加である。3月23日、国民文化会議・日本文化人会議の学者・知識人86人が「軍事的相互防衛関係→再軍備進行→基本的人権・言論・学問。思想の自由が侵される」と声明、全国3,500人の賛同者署名を集めた。

 5月9日、北京天安門広場で「日米軍事同盟に反対する日本国民支援の大集会」が開催された。主席団は中華全国総工会の劉寧一(1905~1994)・賀竜(1896~1969)・郭沫若(1892~1978)。総評訪中団を迎えての激励100万人デモンストレーションであった。

 山崎俊一さん(前述)は団事務局長として天安門楼閣に立った。さらに、瀋陽・70万人、撫順40万人、ハルビン・50万人、最後の上海では300万人の大集会を回った。

 日本では6月25日、第三次統一行動は39都道府県で160万人が参加した。社会党の内紛が起こった。西尾末広派が10月17日、安保改定阻止に反対して国会議員33人が離党する。(翌年1月、民主社会党結成)

5月19日~20日

 4月15日から、国民会議は連日の国会請願行動を展開した。5月19日、自民党が衆参議長に会期50日間延期を申し入れた。16時39分、荒船清十郎議運委員長が自民のみで会期延長を可決。22時25分、小沢佐重喜安保特別委員長が突如開会、質疑打ち切り、新条約承認、新協定承認など多数可決。この間2分間、議事録には全然記録がない。23時07分、院内に警官500人が入り、座り込み中の社会党議員らをごぼう抜き。23時48分、自民党議員のおみこしで清瀬一郎衆議院議長が議場に入り、開会宣言、数分後、会期延長を可決。20日0時06分、本会議再開、討論抜きで新条約・新協定の可決。本会議には野党、自民党の松村・三木派・石橋派が出席せず、河野一郎(1898~1965)は途中退席した。

抗議行動

 20日、各団体は一斉に非難声明を発した。群馬県の商店が閉店スト決行した。21日、朝日・毎日は社説で「岸内閣総辞職・解散」を主張した。デモ隊が官邸を包囲する。官邸は鉄条網で覆われた。議会制民主主義の破壊である。抗議行動が国民的規模に拡大した。

 意識調査で、岸退陣を求める声は70%に及んだ。5月19日から6月23日にかけて国会周辺は連日デモ、全国各地でデモ・集会が開催された。5月26日、国会を17万人が包囲した。5月28日、岸首相は「声なき声の支持あり」と記者会見で発言した。5月31日、社会党では議員総辞職の提案があったが実現せず。6月4日、労働組合(国労・動労・交運・官公労・日教組・自治労・炭労・合化・鉄鋼・全金・全造船・ガス・電力・繊維などなど)560万人が第一波実力行使を展開した。警察当局は充実したストで反岸の空気が強く、一般大衆に浸透していると分析した。

6月15日

 6月10日、アイゼンハワー訪日のためにハガチー大統領新聞係秘書が来日したが、車が、羽田でデモ隊に取り囲まれて立ち往生した。6月15日、第二波実力行使580万人。夕刻、国会周辺デモに右翼維新行動隊(児玉誉士夫傘下)が突入し、暴行を働いた。学生7,000人が国会構内に突入、このとき樺美智子が亡くなった。6月16日、政府は「国際共産主義につながる破壊的行動」と声明した。一連の流れはデモ隊に対する右翼の挑発と警官の暴行であったにもかかわらず——岸は、アイク訪日中止を発表した。

安保条約が自然承認

 6月17日、東京7新聞社が共同宣言を発した。いわく、「暴力を排し議会政治を守れ」。財界4団体も共同声明「暴力排除・議会制度擁護・国際信用回復」。新聞の共同声明はスポーツ紙除く、ほぼ全国の地方紙にも掲載された。宣言を掲載せず批判記事を書いたのは、愛媛新聞と北海道新聞のみである。

 6月18日、国民会議は「岸内閣打倒・国会解散・安保採決不承認・不当弾圧反対」のスローガンを掲げた。この日、国会は33万人デモに包囲された。このとき、陸上自衛隊に待機命令が出されていた。岸は自衛隊出動を目論んだが、赤木宗徳防衛長官が応じなかったという。6月19日、安保条約は自然承認された。6月20日、参議院で自民党単独採決。6月22日、第19次国民会議、第三波抗議行動に620万人参加、東京では12万人のフランスデモが展開された。

 この間、職場大会・ストライキに延べ662万人、集会は延べ6,000万か所に延べ455万人、デモ5,200か所に延べ417万人が参加した。(警視庁)警備費1.4億円であった。6月23日、岸首相が退陣を表明した。

安保闘争が示したもの

 新聞は、ハガチー事件後、論調を一転させた。6月7日から、岸首相や駐日マッカーサー大使にメディア界首脳らが呼ばれて、アイク訪日の成功のための協力を要請されていた。警職法反対では、新聞は多大の貢献をした。安保反対闘争でも、直前まで岸内閣退陣を主張していたから、その豹変ぶりには唖然とさせられる。

 デモや、集会といった活動自体が直接的に政治を転換させることはできない。そこには当然ながら限界がある。だから、メディアの力は極めて重要である。こうしたメディアの変身には、敗戦で戦前・戦中の反省をしたことが、本心というよりも、新たな権威(占領軍)に対して尻尾を振った、いわゆる風邪を引かない体質と同じだというしかない。

 前述したように、保守(支配)陣営には、戦前という回帰位置がある。しかし、被支配者たる大衆には、回帰位置はない。進んで民主主義の育成をめざさなければならない。よくも悪くも、安保反対闘争は、敗戦後の日本人がどの程度の民主主義意識と平和思想を育てていたかを示した。その意味では大善戦だった。さらにいえば、少なくとも確固たる政治的柱が必要であった。しかし、支配層に毅然として対抗していく政党が育っていない。大衆行動が一揆的抵抗闘争に終わるか否かは、国民的政治意識がしっかりと育っているかどうかとつながっている。その核が政党である。

安保後の総選挙

 1960年11月20日、第29回衆議院選挙では、自民党は池田勇人(1899~1965)が、「寛容と忍耐」を標榜し、経済中心の舵取りを訴えた。10月12日、浅沼社会党委員長が演説中に演壇で右翼少年に刺殺されるという衝撃的な事件があった。解散は10月24日である。

 選挙結果は、自民党勝利であった。自民党296議席・社会党145議席・民社党17議席・共産党3議席である。自民2対社会1である。安保騒動を思えば、あっけなく自民党は盤石の態勢を示した。1つは、安保は都会の話であって、地方の人々の意識に深く食い入らなかった。さらには、「岩戸景気」といわれる時期で、「投資が投資を呼ぶ」といわれ、銀行の預貸率は105~125%に及んでいた。そして、人々の生活はかなり上昇の勢いを示していた。その後、日本人は、政治的人間たることを求めず、日々の経済的生活に沈没する傾向を深めていった。――というべきであろう。

【三井三池争議】

エネルギー政策転換

 1950年代、石炭から石油へのエネルギー転換が本格化した。政府は当初、石炭産業維持方針ではあったが、石炭産業は企業整備を推進しなければならなかった。1954年、大手14社が揃って企業整備合理化に着手した。6月、炭労大会は「企業整備の白紙撤回まで長期に粘り強く闘う」方針を決定した。三井鉱山も三鉱連(三井鉱山労組)も、労使代表的存在である。前述1953年「英雄なき113日の闘い」はその過程にあった。

 1959年1月19日、三井鉱山(会社)は、三鉱連に対して第一次再建案を提示した。① 職場規律確立、② 残業時間短縮、③ 新規採用中止、④ 福利施設圧縮、⑤ 6,000人の勇退募集である。三鉱連はスト反復して闘った。4月6日、会社は6,000人を引っ込め、組合は希望退職を妨害しないと約して妥結した。しかし、会社は、6月末希望退職1,582人だったので、8月28日、第二次再建案として4,580人の希望退職募集を打ち出した。団体交渉は決裂した。12月10日、会社は、組合活動家300人を生産阻害者として、それを含む1,214人の指名解雇を発表した。組合は1960年1月5日、解雇通告を一括返上した。1960年三井三池争議の始まりである。

 1月25日、会社は、ロックアウトを宣告した。対する三鉱連は全山無期限ストライキで対決した。金融界は協調融資で会社を支えた。総評は組織を挙げて支援し、6億円資金カンパ・29万人の動員をした。これが総資本対総労働の対決という所以である。3月17日、組合員14,500人のうち、3,100人が第二組合を結成した。3月28日、会社が第二組合に対してロックアウトを解除して、第二組合員が就労しようとして第一組合のピケットと衝突した。3月29日、第一組合員・久保清が、会社お雇い右翼暴力団によって刺殺された。組合はホッパーに家族ぐるみでピケを張り、石炭積み出し阻止、長期戦の構えを固めた。ピケ隊と警官隊の衝突が繰り返された。7月5日、海上から上陸を試みる会社側と、組合の海上戦が展開された。衝突で300人が負傷した。7月21日を期限とするピケ排除の仮処分が決定した。総評・組合側はホッパーに20,000人動員して対決姿勢を強めた。警官隊も10,000人動員された。

 7月19日、中労委の職権斡旋が提案され、ホッパー決戦は回避された。7月26日から中労委斡旋が開始し、紆余曲折を経て、10月28日、ようやく中労委斡旋がなり、11月1日、労使が平和宣言を確認した。ロックアウトから282日が過ぎていた。

人権争議の側面

 三井争議は企業の合理化と、組合の実力による合理化反対闘争である。筆者が組合時代に宮川睦男組合長を招いて講演を聞いた。宮川さんは「要するに解雇撤回が柱」であったと話された。炭坑労働者は他に技術・技能を持っていない人がほとんどであった。そもそも、彼らが、苦しく危険な炭坑作業に耐えて働いていたのは、他に容易に働き口を求め得なかったからである。

 三池労組には、九大向坂逸郎教授(1897~1985 社会党左派)と門下生の指導による労働者教育の成果があって、筋金入り活動家が育っていたという。しかし、エネルギー政策転換は誰にもわかることであったし、企業業績の厳しい悪化も理解できていたはずである。

 つまり、全組合員が一致・一枚岩として闘うための言葉は「全員の雇用を守る」(守りたい)ということにならざるをえない。あえていうが、筆者は、三池争議における組合の力は、雇用が自分の問題だと組合員1人ひとりが考えたからこそ発揮されたのであって、学生たちの理論で生み出されたのではないことを確信する。

 指名解雇は、まさに「全員雇用」を「自分の雇用」と分離させるための戦術である。確かに第二組合が結成されて、一枚岩は崩れたが、なおかつ11,400人が指名解雇の1,214人を守って闘ったのは、讃嘆する言葉がない。炭鉱の労働者魂が輝いた。勝利できなかったが、人間としての連帯が後世に残された。

 組合が、合理化に対して政策・提案を出して労使協議するためには、会社側に「労使対等」の明確な認識がなくてはならない。会社が、単純・粗暴に力とカネで決着しようとしたのは、いかにエネルギー政策転換という事情があったにせよ、許容できない。

 だから三池争議は、組合の合理化対策の巧拙をいう前に、むしろ民主主義における労働者の人権問題として考えるべきである。その意味では、近江絹糸争議とも共通点が強い。労使関係というものは、民主主義の本質と深く関わっていることを、後世代の人々は深く胆に銘じていただきたい。