論 考

敗戦後労働運動の出発―2

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

【2・1ゼネスト後】

占領政策転換

 1947年5月3日、日本国憲法が施行された。その直前3月20日、参議院選挙で社会党は47議席・自由38議席・民主28議席・国協9議席・共産4議席である。3月25日第23回衆議院選挙では、社会143議席・自由131議席・民主121議席・国協29議席・共産4議席であった。社会党が第1党である。6月1日、社会・民主・国協3党連立で社会党片山哲(1887~1978)が組閣した。片山内閣は新憲法制定による法律整備などで善戦したが、社会党内紛が足を引っ張り、翌1948年2月10日、総辞職した。

 民主党芦田均(1887~1959)が連立を引き継ぎ3月10日に組閣した。4月12日には日経連が結成され「経営者よ、強かれ!」と呼びかけた。経営者がようやく立ち直って攻勢をかける態勢を回復してきた。7月22日、マッカーサー(1880~1964)が芦田首相に対し「国家公務員法改正に関する書簡」を送った。国民全体の奉仕者である国家公務員は労働基本権が制限されるべしとした。国家公務員の団体交渉権・争議権が否定された。10月7日、米国国家安全保障会議(National Security Council)が「対日政策についての勧告」を決定した。J・F・ケナン(1904~2005)がマッカーサーの占領政策を批判し、日本社会における共産主義の浸透に警鐘を鳴らした報告書をもとに作成された。占領政策が民主から反共へ転換した。

 芦田内閣は48年10月7日、総辞職する。復興金融金庫からの巨額融資の見返りとして昭和電工から政官界へのバラマキ贈賄があった。芦田を筆頭に政官財人64人が起訴された。戦後復興過程における腐敗・汚職が暴露されたのだが、背後にはGHQ内部の民生局(GS)と参謀第2部(G2)の勢力争いもあった。(昭電疑獄)

 10月19日、民自党吉田茂(1878~1967)による第二次吉田内閣が発足した。11月12日、A級戦犯裁判の判決が下った。東条英機(1884~1948)はじめ7名が絞首刑、終身刑16名、禁錮刑2名である。12月23日、刑が執行された。一方、12月24日、岸信介(1896~1987)らA級戦犯19名が釈放された。

 第24回衆議院選挙が1949年1月23日におこなわれた。吉田民自党264議席・共産党35議席が議席増加組、民主69議席・社会48議席・国協14議席であった。このとき民自党は、池田勇人・佐藤栄作・岡崎勝男・増田甲子七・大橋武夫・前尾繁三郎ら官僚が政界に大量進出した。政党の官僚政党化が始まった。片山・芦田と続いた連立内閣に失望した票が民自・共産両党に流れた。共産党は「民自党のごときは革命の大波に揺られて沈む泥舟に過ぎない」という威勢のよい声明を発した。完全な認識の誤りであったが。

奇怪な事件の続発

 1949年、GHQ経済顧問として来日した銀行家J・M・ドッジ(1890~1964)が財政金融引き締め政策を指示した。徴税強化・歳出削減、国内消費抑制・輸出増大をめざした。公共事業費削減、失業対策費ゼロ、社会保障は後退、大企業への優遇措置が取られた。4月23日、1ドル360円の単一為替レートが設定された。(戦前は1ドル2円)以来、1971年のニクソン・ショックまで続く。さらにC・S・シャウプ(1902~2000)勧告が出される。全面的な税制改革である。戦後日本税制の基礎となる。大衆課税は広範にみりみりと、一方高額所得者優遇するという、広く浅く税の網をかけた。

 6月1日、公務員整理の行政機関職員定員法が施行された。国・地方300万人中42万人弱、14%を整理するもので、国鉄は62万人に対して12万人・19%を整理する。大量首切りに対して国鉄労組は「最悪の場合、ストライキを以て臨む」ことを決議したが、まだ労使交渉に望みを残していた。

 7月4日、国鉄当局が第一次30,700人の整理を通告した。翌朝、下山定則国鉄総裁が行方不明となり、6日0時25分、常磐線綾瀬駅近く、轢死体で発見された。自殺他殺不明であるが、組合が手を下したと疑惑をもたれる危惧があり組合には不利な事件であった。(下山事件)

 7月12日、第二次整理63,000人が通告された。7月15日、中央線三鷹駅で無人電車が暴走、民家に激突、6人の死者が出た。(三鷹事件)

 7月18日、当局は国鉄労働組合幹部を解雇、組合は分裂し、解雇撤回闘争は腰砕けになった。人員整理は予定通りおこなわれた。8月17日3時9分、東北線金谷川駅を通過した上り旅客列車が、松川駅との間で脱線転覆し、乗務員3人が死亡した。レールの継目板が外され、枕木の釘が25本抜かれていた。(松川事件)

 増田甲子七官房長官は18日、全然調査が進んでいない状況で、「凶悪犯罪である。三鷹事件をはじめ、その他各種事件と思想的底流においては同じものである」と談話を発表した。異様である。三鷹事件は共産党員の犯行と喧伝されたが、共産党は関係なかった。松川事件は、19人が逮捕起訴され、証拠不十分のままに1、2審とも死刑を含む判決が出された。作家・広津和郎(1891~1968)らの公正裁判要求が広がり、1963年、最高裁で全員無罪判決が出された。(前年1月26日、帝銀事件(椎名支店)が発生した。青酸カリで行員12人が死亡した。画家・平沢貞道が犯人とされて1955年、最高裁で死刑判決が出たが、読売新聞記者による731部隊(石井四郎)疑惑が表面化するや、GHQと警視庁が圧力をかけて中止させた。)

 これらの3事件(帝銀事件も)は、解明されていない。いずれも米軍謀略説が有力である。占領下、GHQが、民主化指導から反共体制に傾斜した時期であり、戦後の暗い社会と厳しい労働運動の側面を示す代表的な事件である。

【総評結成前後】

講和問題

 1950年元旦、マッカーサーは、① 講和条約締結が近いこと、② 日本はやがて政治的・経済的に自立するが、③ 共産主義者が偽善的喧伝をしていると非難した。注目すべきは――平和憲法は崇高であるが、相手側が仕掛けてきた攻撃に対する自己防衛の権利を否定したものではない――と述べた。従来の憲法に関する主張と全然異なっていた。日本を、いわゆる「極東の要石」にするという米国戦略が明確になった。

 講和について、全面講和(中ソ含む)か単独講和(中ソ除外)か、という問題があった。1949年11月12日、参議院において、吉田首相は、要旨「単独か、全面かという選択は(日本には)ない。国際関係によって決まる」と述べた。吉田自身が徹底した反共主義であり、冷戦構造が固まっているなかで、米英が主導する講和に臨むのだから全面講和は念頭にない。さらに、単独であっても講和による早期独立を獲得したいと考えたのは当然である。

 国民は、東西冷戦に対しては批判的な意見が多かった。いずれかの陣営を選択することは米国への依存・隷属をもたらすし、戦争の危機を招来するのではないかと考えた。安倍能成(1883~1966)ら学者グループ・平和問題懇談会が果敢に論陣を張った。南原繁東大総長(1889~1974)が米国で全面講和論を述べたのに対して、吉田首相が「曲学阿世の徒」と酷評した。南原は断固として主張を貫いた。

 全面講和・非武装中立論が主導権を握るためには、いま、跡付けで考えても、よほど確固とした国民的意志が高まらなければならない。全面講和・中立・再軍備反対の意思表示をした国民は、少なくとも1/3くらいとされる。

 革新の柱になるべき日本社会党が左右に分裂していた。まさに「二本」社会党であった。1950年4月、それでもなんとか社会党大会は――全面講和・中立堅持・軍事基地提供反対――の「講和3原則」を決定した。しかし、1951年10月24日、講和条約・安保条約に反対の左派と、講和条約賛成・安保条約反対の右派が対立し分裂する。

朝鮮戦争

 東西冷戦が熱戦に転ずる危惧を感じた人々が平和運動を盛り上げた。1950年3月15日、世界平和擁護大会常任委員会が全世界に向けて発したストックホルム・アピールは、「原子力兵器の無条件禁止・同国際管理機関の設置・最初に原子力兵器を使用した政府を戦争犯罪人とみなす」と主張した。全世界で集められた署名は5億人、わが国では645万人であった。

 50年6月25日、朝鮮半島38度線で戦端が開いた。宣戦布告はない。国連安保理事会は、北朝鮮の侵略と認識して、北朝鮮に対して38度線以北への撤退を要求した。7月7日、安保理は国連軍創設を決定、トルーマン大統領(1884~1972)はマッカーサーを国連軍最高司令官に任命、東京に国連指導部が設置された。5月30日、韓国総選挙で李承晩大統領率いる与党が210議席中、48議席の獲得しかできず、またその前1月12日、米国が極東防衛線から韓国を除外するというアチソン演説があった。李承晩の人望は地に落ちており、北朝鮮が一気に武力統一を図ったであるという説が妥当であろう。

 10月25日、「抵美援朝・保家衛国」を掲げて中国人民義勇軍が参戦。10月30日、トルーマンが原爆使用の可能性に言及した。アトリー英首相(1883~1967)が12月7日、原爆使用反対を声明した。そもそも米ソが、大戦後、朝鮮を自国有利に扱おうとしたことが朝鮮戦争の背景にあり、朝鮮戦争は、朝鮮の内乱であり、米ソの代理戦争でもあったが、そのまま行けば米ソ間の戦端が開く危険性があった。第三次世界大戦が危惧された。

 朝鮮戦争は1953年7月27日、勝敗なき休戦(armistice)で終わったが、南北朝鮮分断が固定化された。思想的には、反共主義と反米主義の国に固定された。朝鮮戦争の3年間、国連軍(ほどんど米軍であるが)は派兵最大時50万人。使用弾薬は対日戦争分を上回った。韓国軍・北朝鮮軍共に死者62万人、国連軍死者15万人、中国軍死者18万人、韓国民間人死者99万人。当時韓国人口は2,000万人だった。

警察予備隊

 1950年7月8日、マッカーサーが吉田宛て書簡で、75,000人の警察予備隊(National Police Reserve)創設と、海上保安庁8,000人増員を指令した。GHQは軍隊と見られることを極力警戒し、また、国会論議をさせぬために、「国会はなんら審理する権限を持たない」として、政令で処理した。これは在日米軍4個師団相当、米軍の韓国派兵の穴埋めだった。巡査初任給が月給3,991円、予備隊員は5,000円で募集した。382,000人を超す応募があった。歩兵を普通科、砲兵を特科、戦車を特車、工兵を施設と称して軍隊ではないことを示そうとした。

総評結成

 2・1スト失敗以後、労働運動は決してひるんではいなかった。全国労働組合連絡協議会(全労連)が結成され、総同盟・産別会議・中立系組合など、主要組合のほとんどが加盟して460万人組織を結成していた。ところが総同盟と産別会議(共産党系)が対立し、1948年、総同盟が全労連から脱退。産別会議からは、民主化同盟が脱退し、1949年、新産別を結成した。

 世界の労働運動は、1945年、世界労働組合連盟(世界労連 56か国・65団体・6,500万人)を結成した。しかし、マーシャルプランを巡る対立から英米蘭などが脱退し、1949年、国際自由労働組合連盟(国際自由労連 53か国・59団体・4,800万人)を結成した。産別と全労連は世界労連に加盟していたが、GHQが、国際自由労連加盟での労働戦線統一を決定し、総評結成方針が決まった。

 1950年7月11日~12日、総評(日本労働組合総評議会 17組合・377万5000人 オブ加盟17組合・63万5000人)の結成大会が開催された。基本綱領は次の通り。① 政党と労働組合の機能の違い。② 破壊的極左労働運動の否認。③ 労働者の利害と資本家階級との基本的対立。④ 平和的・民主的手段により社会主義社会を実現しようとする政党と積極的協力提携。⑤ 国際労働組織の拡大強化への参加。さらに当面の行動綱領に、「全面講和の締結を促進し、自由と平等の保障される日本のすみやかな独立達成のために闘う」という項目があった。

 ここで気づくのは、一応、総評の立ち位置を規定しているが、それは政治的志向性に関してのみであり、「労働組合とは何か」「組合員の参加をどうするか」というような問題意識は見当たらない。総評は、いわば労働組合活動以前の政治結社的な雰囲気の中から闘う組合として出発した。しかし、これが機関絶対主義的になり、後に組合において、「個人と組織」の関係が問題視されることにもなった。

 52年、総評書記に採用された山崎俊一さん(故人)が、高野実事務局長(1901~1974)の叱咤激励の言葉を残した。(『私の総評日記)

「総評は労働運動の総本山であり、全国の闘争指揮所である。労働運動とは生活や抑圧に苦しむ労働者や社会的弱者を全力あげて助け、守ることであり、それは社会改革をめざす反権力の闘いである。総評本部はその砦であり、皆さんはオルグ(組織者)である。革命家の気概を以て、寸暇を惜しみ、大衆に奉仕することを忘れてはいけない。幹部は弱みを持つと権力に付け込まれる。酒・煙草はもちろん、博打、不倫なども認めない」。

 山崎さんは総評全盛時代の太田・岩井時代に、38歳で企画部長になり(1963)、以後17年間、「昔陸軍、いま総評」といわれた時代の総評中枢で活動した。

レッド・パージ

 1950年7月18日、マッカーサーが、吉田首相宛て書簡で、共産党『アカハタ』の無期限停刊措置を指令した。7月24日、GHQは新聞協会代表にレッド・パージを命じた。全国の新聞・放送関係で704人がパージされた。日経連が欣喜雀躍した。年末に、パージは全国全産業に広がり11,000人がパージされた。政府もまた公務員1,200人近くをパージした。

 レッド・パージに対して、労働組合は、総評も含めて反対表明をした程度で目立った組織的反抗は見られなかった。共産党フラクに対する反発、GHQオールマィティに対する無力感があっただろうし、「アカ」というレッテルを以て中身を深く考えない戦前からの気風があったとも考えられる。なによりも敗戦後の労働運動が、賃上げでは人々の共感を得ていたとしても、(民主主義が)組合員1人ひとりの問題だという認識が決定的に薄かったのではなかろうか。

平和4原則

 1951年1月、講和条約の動向をにらみながら、社会党大会は、平和4原則を決定した。「全面講和・中立・軍事基地反対・再軍備反対」である。このとき鈴木茂三郎委員長(1893~1970 左派)が「青年よ、銃をとるな! 婦人よ、平和のために!」と叫んだ。続いて日教組が「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンを掲げた。

 総評は3月、第2回大会で、「再軍備反対、中立堅持、軍事基地提供反対、全面講和――の実現で平和日本を守り、独立を達成する」という項目を行動綱領に加えた。この大会で、国際自由労連一括加盟案が否決された。総評は、GHQが反共労働運動を期待したのに対して、いわゆる左旋回をした。それで「ニワトリからアヒルへ」といわれた。

 創立期の総評を指導したのが高野事務局長である。高野は「哲人」といわれたが、その名に恥じぬ労働運動の闘士であった。高野は、総評を「対米従属下、民族の苦悩の担い手」と考えていた。この年、単独講和反対のカンパニア活動が盛り上がった。

【経済と生活】

朝鮮戦争特需

 朝鮮戦争で日本は軍事基地・補給基地としての役割を果たした。特需が日本経済に大きな影響を与えた。麻袋、有刺鉄線、毛布に始まり、鋼材、セメント、トラック、戦車、艦艇修理、さらには基地建設・整備など。間接的なものを含むと、1955年までの累計で36億ドルになるという。(通常輸出は年間10億ドル程度)――天佑神助、干天の慈雨などと喜んだ連中は少なくない。喜ばなくても、特需に日本経済が助けられたのは事実である。

庶民生活

 経済はインフレ、敗戦直後の混乱は脱したものの、人々の生活は極めて厳しいものだった。1953年国民の1日カロリー摂取量は2,048カロリー(1934~38並み)で、エンゲル係数は50%程度である。居住環境は劣悪、1人当たり3.3畳である。トリスバーが続々、トリスSとピースが40円、映画・パチンコが娯楽の王様で、パチンコ産業売上3,300億円(一般会計予算1兆円)である。

産業復興

 4大重点産業、電力・海運・石炭・鉄鋼を軸として産業が復興する。技術革新も進んだ。米国などの技術を学んだのであって独自技術ではない。佐久間ダムでは、ドリル・ジャンボ、ダンプ、ブルドーザー、油圧ショベル、ケーブルクレーン、コンクリ運搬車が大活躍し、後々わが国土木事業の道筋を照らした。鉄鋼はストリップ・ミル技術と製鉄一貫生産、造船は自動溶接、ブロック建造法、繊維ではナイロン、ビニロン、電気はトランジスタ――かくして資本はだいたい復活した。

経営者よ、強かれ!

 1953年、日経連は労働協約基準案を作成して各企業を叱咤激励した。総評を中心とした労働運動の隆盛に危機感を抱いたからである。電産型賃金による労働組合の賃金攻勢に対しては、職階給・職務給で対抗した。石炭・電力のスト規制法(1953.8.7公布)が作られた。労働協約闘争は資本側の勝利である。課長(係長級も含めて)が非組合員化されたのは、後の労働組合運動にとって痛切な失点である。労使関係において、賃金一本槍の組合運動の盛り上がりだけでは、労働組合の本当の力を構築することはできない。

争議頻発

 資本側の攻勢が活発になった。1950年代半ばまでは、大きな争議が続発した。1952年、破壊活動防止法案反対スト、電産の3カ月にわたる電源スト、炭労63日ストが有名だが、これが前述のスト規制法を引っ張り出した。1953年、日産争議は自動車労使全体を巻き込んだが、組合側が敗北した。8月、三井鉱山4労組(三鉱連)の企業整備反対闘争は、炭住主婦会も巻き込んだ争議に発展し、「英雄なき113日の闘い」というが、組合が解雇撤回を勝ち取った。この流れから総評は「職場ぐるみ・家族ぐるみ・町ぐるみ」の、いわゆる「ぐるみ闘争」路線を発明する。尼崎製鋼所が賃下げ反対77日間スト、日本製鋼室蘭が人員整理に反対して193日間ストを闘った。しかし、いずれも組合が敗北する。1954年、近江絹糸で、いわゆる人権争議が発生した。経営側の古めかしい体質に世論も厳しく反応した。

逆コース

 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効によって、わが国は一応独立国に復帰した。当局者たちは、講和発効によって治安の空白が発生することを畏れた。そこで破壊活動防止法(破防法)による労働組合運動の制限を目論んだ。戦前の治安維持法復活を想像させるから、労働組合は敏感に反応して対抗した。4月から6月にかけて5波のストライキで闘った。その最中第23回メーデーが開催された。皇居前広場が使用禁止とされ、明治神宮外苑で集会したが、一部が皇居前広場へ行進した。警官隊が催涙弾とピストルを発射し乱闘と化し、死者2人・負傷者2,300人を出した。「血のメーデー」という。警視庁は騒乱罪を適用して261人起訴したが、1972年の高裁判決で無罪とされた。メーデーの流血は、警察当局の陰謀であった。

 まともであった当時の読売新聞は、1951年11月から「逆コース」と題する企画を連載し、戦前戦中への復古的風潮を批判した。1952年11月10日、皇太子明仁の成人式・立太子礼で、吉田首相は「臣茂」と述べた。これまた人々をアッと驚かせた。

 1954年3月1日、第五福竜丸がビキニ環礁で米水爆実験の放射能を浴びた。政府は当初秘密にしたが、読売新聞スクープで表面化した。5月から原水爆禁止署名運動が起こり、1955年8月には国内3,238万人、世界では6.7億人の署名が集まった。かくして8月6日、第1回原水爆禁止世界大会が開かれた。政府の核兵器問題に対する態度は一貫して反対運動に対して不誠実である。しかも、核を保有したいとする連中が大手を振って歩くようになった。

 敗戦後、工場があっても稼働せず、めいめいが鍋釜を作るとか、買い出しのために会社を休むとか――そのような時代が終わった。経営者意識の再興があったにしても、もっとも生産活動を軌道に乗せるための貢献をしたのは労働者である。歴史に残る争議を展開した労働組合は少数派であり、圧倒的多数の労働組合は操業を軌道に乗せるために善戦敢闘していた。

 食べられなければどうしようもないが、では、食べられたら、いかなる生き方をするのか。「いかに生きるべきか」を問わなければ基本的人権に性根が入らない。鉄(民主主義)は熱いうちに鍛えられたのか。不十分と言い切るのは酷だが、後から考えると、やはり十分とは言えなかったと思う。