週刊RO通信

連合会長を選挙すべき理由

NO.1617

 いままであまり生臭い主張をしたことはないが、このあたりで言わねば労働運動という言葉が辞書から消えてしまう。心配でならない。

 過去が積み重なって現在がある。だから、いまの原因をつくったOBが、昔はよかったというのは片腹痛い。ただし、わたしは組合役員時代の40数年前、拙著『労働組合が倒産する』で、ダメな労働組合にならないように警鐘を鳴らした前科があるから、その存念・主張を繰り返しておきたい。

 この10月、連合会長の改選である。参議院選挙が大仕事で、選挙後に人事選考という流れらしい。しかし、選挙戦の疲れもあるし、もたもたしていると時間切れ現状維持に落着しやすい。それはよくない。あえて会長選挙を唱え、みなさんにお考えいただきたい。(なお、現会長に個人的な因縁があるわけではない。労働組合の総帥としての問題意識の土台を呈したい)

 なりたくないのに役員になった人も含め、組合役員諸氏が一所懸命に努めていることは知っている。組織率が20%台を切ったとはいえ、組合は1000万人近い組合員を擁する。昔と比較すると、組合役員の社会的地位もうんと安定している。それにしては組合の存在感が薄い。なぜだろうか?

 代々木公園での中央メーデーは、今年は3万人くらいだった。最盛期には、集会後3方面に分かれてデモ行進したが、最後尾が出発するまで4時間近く要した。いまは首相が挨拶するが、労働運動が政治家を動かしたというよりも、しょぼい官製集会の感だ。参加者の意気が高まるふうもない。財界総理、労働総理という表現もあったが、いまは労働官僚にしかみえない。

 当節の組合活動には、「労働運動らしさ」がない。組合というのは組合機関で、つまりは執行部である。組合活動は執行部活動であって、組合員の顔が全く浮かんでこない。社会的存在感が生まれないのは当然だ。

 組合力とは、正しくは組合員力である。組合員のいない組合力は、役員の個人的資質によるしかない。個人的資質について、驚いたり感心したり目をみはるような人物がたくさん存在するわけはない。

 執行部の仕事は、組合員力を引き出すことにある。それが連帯である。連帯は、あらかじめ存在しない。連帯はつくるものだ。連帯をつくれない執行部だけの活動は非力である。

 請われて嫌々渋々執行部の一員になったが、やがてミイラ取りがミイラになってしまう。辞任しないから上等とは言えない。つまりは旧態依然の活動を無批判に継続する結果、組合活動が低落傾向から転換できない。

 組合活動なんかやる気はなかったという新役員に、「きみが組合員当時不満だったことを満足に変える工夫をしてごらんよ。それが前任者らの気に入らなくてもめるなら、さっさと辞めればいいんだ」。わたしはなんども話したが、辞めましたという話を聞いたことがない。価値を感じるらしい。

 執行部に入ったら、何がなんでも御用聞き。組合員第一、組合員と話し込むような役員であれば、機関でえっさらほっさらやっている活動が、組合員の期待にふさわしいものかどうか、すぐにわかりそうなものだ。

 組合員の力の総和が組合の力である。組合の力の総和が産別組合の力である。産別組合の力の総和が連合の力である。組合員の力が決定的に希薄な状態において、産別の力も、連合の力も大きく育つわけがない。組合員が参加する組合活動をつくるという認識がなければ、性根の座った労働運動を生み出せない。組合費は機関の維持のために集めるのではない。

 連合会長は、少なくとも、労働運動というものの価値や、それをつくっていくために組合主体に何が欠落しているのかについて、根本的真剣な問題認識と覚悟と発信が必要だ。会長という役割を表面的になぞって演技する程度では、労働運動の総大将たりえない。リーダーは演技力からは生まれない。

 日本は地球温暖化より数段早いペースでじゃんじゃん沈みつつある。なんとかせねばならない。古ぼけ、かつ形骸化した賃上げのリニューアルを推進しても日本再生のエネルギーは湧かない。働く人こそが社会の主人公なのだ。労働組合が、組合員力を高め、労働運動を展開する本気を出さねばならない。

 低迷する組合活動において、連合会長選挙は、問題認識を掲げ、連帯を組合員に呼びかける、志と気迫のある人物を選び出すチャンスである。