論 考

敗戦後労働運動の出発-1

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

――取り扱う歴史的要点は、敗戦後から1960年の反安保闘争・三池争議までとする。歴史に切れ目はない。敗戦後労働運動の出発という視点を置いたら、反安保闘争・三池争議までを一つの流れとして見るのが妥当だ。敗戦後労働運動が出発して流れついた到着点として反安保闘争・三池争議を位置づけたい。さらにいえば、反安保闘争も三池争議もその後の運動の出発点になり得なかったという歴史的事実を認識しなければならない。——残念ながら。

8.15前後の断絶

 敗戦後日本の歴史を考える場合、もっとも大事な要点を押さえておこう。第一、1945年8月15日の前と後は国の運営の考え方(思想・制度)が天と地というほど異なる。天皇主権が国民主権に変わった。国家主義が個人主義に基づく民主主義に変わった。180度転換である。思想と制度の革命だが、これは理屈である。思想・制度がいかに変わろうとも、それらは現実の人間(個体)を通して運営される。人のものの考え方も行動も簡単には変わらない。人間は習慣の生き物だ。

 昨日まで国家主義・軍国主義を鼓吹していた人が、民主主義に変わるや一転して民主主義の鼓吹者になった。純粋な! 軍国少年少女は、そんな汚い大人に決定的な不信感を抱いたという話が多い。事実、いかなる風が吹こうとも、決して風邪を引かぬタイプの人が多いのはわが国の特徴の一つだ。(事大主義・バスに乗り遅れるなの気風)

 そうは言うものの、熟慮した結果、敗戦までの国の在り方よりも民主主義のほうがよろしいと理解・納得した人が、考えを改めたいのだから転向してはいけないという理屈にはならない。君子は豹変するべきである。(もちろん好ましい方向へ)そこで一つ問題が発生する。本当に「転向=面目一新」したのであるか否か。これが悩ましい。一庶民が権力者に追従していたならば、「騙されていた」とか「お上はおっかないから」という方便が通用するかもしれぬが、権力者の一人としてイケイケどんどんの旗を振り回していた連中であれば、疑惑の対象にならざるをえない。

 要するに、以前の権力を上回る新権力が登場した結果、新権力に追従して転向した可能性があるから、その本心は奈辺にあるのか疑われる。もともと人の心は他人には容易にうかがい知れない。さらに面従腹背して、じっと時が来るのを待つ。捲土重来を期すというのもいる。

国の歩みの総括がなかった

 いずれにせよ180度転換したのだから、論理的に納得する作業(総括)が必要だ。ただ「時代が変わった」「状況が違う」というような安直・ご都合主義であれば、論理的でもないし、心底納得していない。とりわけ、わが国民が権力者(戦犯)を自分たちの手で裁かなかった決定的な弱さを直視しなければならない。これ、いまのわたしたちの課題だ。たまたまお隣の国が鷹揚にも「悪いのは軍国主義者どもである。国民一般は被害者であった」と言ってくれたとしても、それに安住するだけでは理性的堕落である。安住した結果として、日中・日韓関係が後戻りした。いまの日中・日韓関係の精神的責任の多くは日本人が負わねばならない。

 過去の歴史的総括をしなかったことに加えて、民主主義が与えられたものであることも重大な問題である。権力者がいかに暴虐であったにせよ、庶民が、民主主義的な資質を少なからず備えていたのだろうか。まあ、(権力とは)そんなものだと考えていた程度なら、落ちてきた牡丹餅を食べることができない。食べても本当のおいしさが理解できない。味覚も知性の一つだから。

 日本国憲法草案発表(1946.4.17 公布同11.3 施行1947.5.3)に当たって、国民は歓迎したというのが歴史の解釈である。人々は何を歓迎したのだろうか。敗戦は悔しい。一方、横暴究めた軍部が無くなったのは嬉しい。(嬉しくない人々も少なくなかった)これからどうなるのか、どうすりゃいいのかというのが最も多数派であったろう。混沌、ハチャメチャ、混乱であった。1945年8月15日以降、何がなんだかわからない、茫然自失であり、一億総虚無状態であったと思われる。

 米国は1942年秋から対日戦後処理の検討を開始していた。わが国は上下ひたすら戦争を継続することしか頭になかった。日本人の心理状態は、戦争自体が目的化していた。ところで、国民は「何のための戦争なのか」をきっちり理解していたのかどうか、極めて怪しい。

 山田風太郎(1922~2001)は『戦中派不戦日記』で当時の代表的精神状態を残した。1945年元日には、「祈るらく、祖国のために生き、祖国のために死なんのみ」と書き、大晦日には「われはまたほとんど虚脱せる魂を抱きたるまま年を送らんとす。いまだすべてを信ぜず。」という調子だ。同年3月10日東京大空襲後、「勝つなんて誰も信じていない。必勝を叫んでいるのは大臣と新聞社説だ。それは神がかりと馬鹿の如し」と書き、8月16日は「なぜこうなったのかという経過を分析し徹底的に探究しようとしない。浅薄、上滑り、いい加減」と罵倒し、懐疑心無きことを心底嘆いた。まさにそのまま時間を滑っていくのみであった。

 時代の波に翻弄されたインテリの赤松克磨(1894~1955)は『日本社会運動史』に、「(戦前)わが国は、国家主義と資本主義が最初から結びつき、しかも封建制度の残滓と民主主義(意識)が未熟であった」と書いた。この指摘は正しい。こういう気風において大戦争を15年間も続けて降参した。

 わが国民には、敗戦まで正確な情報が全然与えられなかった。嘘と誇大宣伝の刷り込みであった。兵士が飢えて死んでいるなど夢にも思わず、お上の命令に追従することを以て国民的義務だということしか頭に無かった。敗戦の新事態に対して、一転、的確な判断力が躍動するわけがない。直ちに何がなんでもメシを食うことに狂奔するしかない。敗戦に至っても不当な戦争という意識が権力者に無く、生き延びることしか考えられないのが庶民である。

 メシを獲得するという次元は低いにしても、全面的に没入する課題が人々を虚無から立ち上がらせたという面は無視できない。メシから民主主義への道を模索したかどうか。それが問題である。もしかして、敗戦直後、民主主義はママ親の連れ子みたいなものであったろうか。

【敗戦直後の労働運動】

GHQの民主化指令

 マッカーサーが厚木に到着したのが1945年8月30日。9月2日、ミズーリ号上で降伏文書調印。以降占領行政が着々進行。9月11日、東条英機が戦犯容疑で逮捕。一連のGHQ民主化関連指令は、9月10日、言論及新聞の自由に関する覚書。9月19日、日本新聞規則に関する覚書。10月4日、政治的民事的及宗教的自由に関する制限の撤廃に関する覚書。矢継ぎ早に出される指令の意義・意味を十分に理解・咀嚼した人が少なかったのは当然だろう。

 マッカーサーが幣原喜重郎首相に対して「五大改革」を要請したのは10月11日であるから、それより早く結成された組合が少なからずあった。

*五大改革 ① 婦人参政権賦与による婦人解放、② 労働組合の組織奨励、③ 学校を自由主義的教育にする、④ 国民を秘密の審問濫用により恐怖を与える組織の撤廃、⑤ 経済制度の民主主義化。

組合結成と当事者意識

 敗戦当時北海道には、朝鮮人3.7万人、中国人3千人強が炭鉱・土建・港湾などで強制使役されていた。9月下旬から待遇改善・送還を要求した暴動が発生した。これが日本人の労働組合結成への刺激になった。10月6日、三井芦別従業員組合結成、年末までに北海道では炭鉱労働者75%を組織した。全日本海員組合が10月5日、産別単一組織として結成された。東京交通労働組合(11.20)、東京都従業員組合(11.23)、全日本教員組合(12.1)、日本教育者組合(12.2)、逓信従業員組合(12.12)などだ。

 朝日新聞は、8月23日社説「自らを罪するの弁」で戦前中の反省を述べたが、社内での責任は放置されたままである。社内有志が一斉決起して社長以下重役を総退陣させた。(10.22)続いて東京本社従業員組合が結成される。(11.10)読売報知も組合を結成し、社内民主化を要求した。(10.23)警視庁から来て社長に就任し、大政翼賛会総務を務めた正力松太郎社長の責任追及・引退を要求した。正力が組合の鈴木東民らの退社を命じたので、組合は10月26日から生産管理戦術で対抗した。結局、正力が12月2日、A級戦犯容疑で出頭を命じられて社長を退き、馬場恒吾が社長に就任した。これ、民主読売時代といわれた。

 労働組合法が公布されたのは12月22日である。(1946.4.1施行)GHQの組合育成方針が明確になった。その効果は甚大である。1946年になると労働組合結成が盛んになる。やがてポツダム組合とか、雨後の竹の子(のように結成された)といわれた。

 朝日・読売の動向は、GHQの意向を忖度して、その出方を畏れた人々が会社を守るために立ち上がったと言えなくもないが、戦時体制の責任を追及したことは評価に値する。一方、続々結成された労働組合においては、産業の民主化・企業の民主化を綱領に掲げたものの、正面から戦争責任を追及した組合はない。ほとんどは従業員組合であり、まずは会社の再建と、とにかく日々のメシの確保のために賃金引き上げに関心が集中した。むしろ会社側がGHQの意向を畏れて、従業員に労働組合の結成を働きかけたところも少なくなかった。こちらがポツダム組合の多数派である。

 GHQは日本の民主化の橋頭堡として労働組合の育成を目論んだ。労働者自身にその当事者意識が強かっただろうか。なにしろ敗戦前までは、理屈抜きに組合活動家といえばアカである。敗戦前の労働組合は、1931年の818組合・組合員37万人弱・組織率7.9%が最高である。その年満州事変が勃発し、以降戦時体制へ入り、1937年日中戦争本格化に伴って、労働組合の活動は絶滅していた。ポツダム宣言には「日本の民主的傾向の復活強化」という文言が記載されているが、復活させるべき民主なるものは厳しく言えば存在しなかった。日本人は帰るところがなかった。新たな行先をめざすしかなかった。「鉄は熱いうちに打て」というが、果たして鉄を打っただろうか。

民主戦線ならず

 敗戦によって、人々の頭を抑えていた国内の権力が消えた。「権力の空白」である。これは、どんなものであろうか。日本全国混沌として、右往左往しているのであって、誰かが正解を教えてくれるわけでもない。政治面で台頭したのは、敗戦まで権力と闘い、(とはいえ弾圧されて気息奄々であったが)敗戦によって叩き潰された権力の対面にあった共産党である。獄中18年の徳田球一(1894~1953)という稀代の煽動家が労働者大衆の人気を獲得して大活躍した。

 1945年10月10日、GHQ指示によって政治犯が一斉釈放された。誰が考えてもこのくらい明確な従来権力の没落を示す事実はない。かくして共産党がGHQを解放軍と読み違えたとしても笑えないし、革命家然として声を上げた共産党に期待が集まった事情も不思議ではない。

 1946年1月4日には公職追放令が発せられた。戦前権力をほしいままにした連中が最も絶望感に襲われた時期である。1月10日、明治以来社会主義運動の中心にあり続けた山川均(1880~1958)が、「人民戦線即時結成」を提唱した。これは労働者国民が主体的に政治へ踏み出すためには極めて正鵠を射る提唱であった。1月26日、中国延安から帰国した共産党・野坂参三(1892~1993)歓迎国民大会が日比谷公園で開催された。山川ら戦前からの活動家が勢揃いした。集会はお祭り騒ぎだった。

 海軍将校に扮した俳優、大衆を無知扱いする知識人、民主・自由主義追放を叫んでいた文化人などが次々登壇した政談演説会に過ぎず、真面目さが足りない、と一人の東大生が朝日新聞投書欄に憤まんをぶつけた。(高見順『敗戦日記』)

 大騒動が続いて民主戦線の主体が形成されなかった。たとえば共産党主流は「天皇制打倒」論を掲げた。共産党の中にも、天皇制打倒は共産党のスローガンであるが、統一戦線のスローガンではない。統一戦線のスローガンは「人民主権による憲法改正」であると論ずる人はいた。しかし、共産党内では傍流であった。共産党は、「憲法よりメシ」の路線に執着していた。理屈はともかくとして、当時天皇制打倒は国民世論において少数派である。なにしろ天皇が開戦し、終戦(敗戦)した。それに代わる権威が存在しない。

 共産党が、知識人の支持を得ていたのは、理論が明快だからである。しかし、少し考えればわかることだが、理論がいかに明快であっても、国民大衆の支持が顕在化しなければ無力である。オツムの中で革命を描き、自己陶酔することは可能だが、それを現実化させるための石を一つひとつ積み重ねなければ政治的力にはなりえない。前述赤松の指摘との大きな段差を考えれば、浮ついていたと見られても仕方がない。

 権力が空白化している敗戦直後は確かに大きな転機ではあった。しかし、民主という言葉一つ考えてみても、それが全然定着していない。民主主義論自体が人々に理解されていたとは到底言えない。頭を冷やして、遠回りでも、民主主義の浸透を図る戦略が取られるべきであった。(後追いの理屈だが)

 いまだ共産党は戦前から権力に屈しなかったと誇るが、主体的力量が伴わないのに大言壮語した反省もしてもらわねばならない。もちろん共産党だけの責任ではない。社会党にしても、戦前から民主主義の思想を確立していた人は少ない。保守・革新いずれも戦前翼賛政治の事情を考えれば、柱になるべき民主主義者自体が少なかった。

【占領体制と労働運動】

 もちろん当時の労働運動家の善戦健闘を否定するものではない。日本始まって以来の大混乱の渦中で、将来に向かって確固とした歩みを開始するには時代を透徹する哲学が必要である。現実政治の力関係を熟慮分析して的確な舵取りをなさねばならない。だから、結果論で当時の運動家を批判するつもりは全然ない。そうではあるが、いまから未来へ向かおうとするわたしたちが、先人たちの辿った道から、問題は何だったのかを摘出・分析しておかなければ、歴史を回顧する意味はない。その意味で以降の論を提出する。

メーデーと占領軍

 第17回メーデー(1946.5.1)が皇居前広場で開催された。1920年(大正9)が第1回、日中戦争前年1936年から禁止されていた。10年ぶりの復活だ。50万人が集い、人民政府確立と労働戦線統一を標榜した。5月19日、飯米獲得人民大会が同広場で開催された。食糧難は深刻悲惨を極めていた。25万人が結集し、宮内省と首相官邸へ上奏文・決議文を届けた。この際、「朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ臣民飢えて死ね」のプラカードが問題にされ、不敬罪で起訴されたが、1948年最高裁で免訴になった。

 これに対してマッカーサーが翌20日、「民主的方法によるあらゆる可能な国民的自由が認められているにもかかわらず無秩序分子が使用し始めている物理的暴力はこれ以上許されない」とする、「暴民デモ許さず」声明を発した。GHQはオールマィティである。日本の管理は日本政府を通じておこなっている(間接統治)が、それは占領軍の意に適う意味においてであり、政府であろうが、国民であろうが、GHQが気にいらなければ取り締まることを明言した。これが占領だ。

 GHQは民生局のホイットニー准将配下に熱心な民主主義者が多く、憲法制定に関しても昼夜をわかたず奮闘したという。一方、治安維持に当たるG2(参謀第2部)のウィロビー少将は徹底的な反共主義者である。1949年には、下山事件(7.6)、三鷹事件(7.15)、松川事件(8.17)が発生し、共産党員・労働組合員による謀議犯行だとされたが、でっち上げであった。その背後にGHQの動きありとする説が有力になっている。実際、民主主義国といいながら米国の反共主義者は半端ではない。もちろん今も。

 この辺りで、共産党はGHQが占領軍であって、解放軍ではないことを拳々服膺しなければならなかった。しかし、依然として革命路線を掲げたままであった。それが2.1スト(1947)の瓦解へつながった。

路線対立

 1946年8月1日、日本労働組合総同盟(総同盟)が結成された。組合員数85万名。綱領は、① 労働生活諸条件の向上と共同福利の増進、② 技術練磨など通じた人格の完成、③ 産業民主化の徹底を通じて新日本建設、世界平和に貢献する、とした。社会党系で共産党系は排除した。主導権は右派が握った。こちらは明治以来の労働組合の色彩が強い。

 共産党系は、すでに1月、関東地方労働組合協議会(関東労協)を結成していた。組合員数は31.8万名である。産別として日本新聞通信労働組合(新聞単一)を2月9日結成していた。さらに8月19日、全日本産業別労働組合会議(産別)が結成された。組合員数163万名。綱領は、① 労働者・組合の基本的権利の擁護、② 封建的・植民地的労働条件の一掃、③ 週44時間労働制、④ 婦人・少年労働者の完全な保護、⑤ 資本家全額負担の失業保険、⑥ 民族経済の復興、⑦ ファシズム・軍国主義残存勢力の撲滅、⑧ 労働戦線の完全統一、⑨ 農民との同盟結成、⑩ 世界労働階級との提携・永久平和のための闘争である。明らかに民主主義を前面に押し出している。

10月闘争の勝利

 10月、第二次読売争議が始まり、国鉄・海員の解雇反対闘争はいずれも組合側が勝利した。東芝労連は首切り撤回・最低賃金制獲得要求を掲げて10月1日スト突入、50余日闘ってほぼ全面的に勝利した。読売は敗北したが、背後にGHQによる会社支援があったという。NHK、炭坑ストも勝利した。日本電気産業労組協議会(電産)は、いわゆる電産型賃金要求を掲げて、5分間の抗議停電(10.19)、10月23日から重要工場への送電停止の戦術を展開し、11月30日大方の要求を獲得した。これらが10月闘争といわれる。労働組合の勢いは目をみはるものがあった。

 同時期、教員組合が待遇改善を要求した。これを皮切りとして、全国官公職員労働組合協議会(全官公労協)、全国公共団体職員組合連合会(全公連)、前逓信従組、国鉄総連合などが、最低基本給・越年資金などを要求した。11月26日、全官公庁共同闘争委員会(共闘)を結成した。組合員156万名が立った。議長・伊井弥四郎(国鉄)である。12月3日、共闘は全組合の要求を整理して政府に対して要求を提出した。越年資金・最低賃金制・勤労所得税撤廃・不当馘首反対など10項目であった。中央労働委員会(末弘厳太郎会長)が調停に入るが不調で越年した。

 それら産別傘下に加えて、総同盟、社会党も動いた。11月29日、社会党主催で労働組合懇談会が開催された。産別・総同盟・日労会議・国鉄・全逓などが参加、① 賃上げにおける共同闘争、② 労働戦線統一に向けて進める、③ 経済闘争であっても政治問題化するのは必然として、12月17日、吉田内閣打倒国民大会を開催した。皇居前広場に50万人が参加した。12月6日には、極東委員会(FEC)が、労働組合に関する16原則を発表した。そこに、「労働組合の政治活動参加、政党支持を許容される」という一項が盛り込まれていた。これも労働組合を勇気づけた。

 1947年元旦、吉田首相がラジオで年頭挨拶をおこなった。いわく、「経済再建・産業復興の大事なときに、経済危機を絶叫し、生産阻害し、経済再建のための挙国一致を破ろうとするのは不逞の輩である」。朝日新聞社説は、「不逞の輩とは、敗戦前絶対主義的天皇制において権力者が一切の批判を許さない言葉であり時代錯誤である」と批判した。この発言は労働者の憤激を買った。

 1月15日、産別・総同盟・日労会議に単産を加え33組合・600万余名を擁する全国労働組合共同闘争委員会(全闘)が結成され、共闘支持の外郭組織となった。共産党は「ゼネストを敢行せんとする闘争は民主人民政権を樹立する全人民闘争の口火である」という声明を発していた。(1.8)この時点で共闘組織は経済要求のためのゼネスト方針を崩さなかった。1月18日、13組合・260万人の共闘は、ゼネスト宣言を発した。GHQがゼネストに対する干渉を開始した。1月23日、社会党中央執行委員会はゼネスト回避論を決めた。

2.1ゼネスト瓦解

 1月28日、中労委斡旋による政労交渉が開催された。政府側は石橋湛山蔵相・河合良成厚相・平塚運輸・一松逓相、労働側は伊井弥四郎議長以下3名、 中労委は末広会長以下、鮎沢・中山・桂・徳田・松岡・西尾の面々である。中山試案が出された。18歳650円・平均月収1,200円など。現行の2倍値上げ案である。組合要求は3倍なので翌29日、共闘側は拒否した。そして、「吉田内閣総辞職」を要求した。政治闘争に転換した。スト決行は国鉄・全逓のみであった。他は共闘会議決定に従うとしていた。共産党本部では、革命来ると興奮していた。GHQがスト指令を出さないと思い込んでいた。

 1月31日14時半、マッカーサーが「ゼネスト禁止」声明を発した。「現下のごとく窮乏にあえぎ衰弱した日本の実情において、かかる致命的な社会的武器に訴えることは許さない」。1月31日21時21分、伊井弥四郎議長がラジオ向かって、泣きながら「一歩後退二歩前進」を訴えた。占領下で革命を夢見たのであるから、一歩後退ではない。戦略の全面的な誤りだ。2.1ゼネストの失敗は、果たしてきちんと総括されただろうか。大きな疑問が残る。

占領下民主主義

 後追いで考えれば、GHQが労働組合育成策を推進したのは、① 理念としては、日本の国家主義的気風を打破し、個人主義に基づく民主主義を推進するものであった。② 同時に、それは占領政策全体にとって好都合でなければならない。③ では何が不都合であったのか。要するに、すでに占領政策が転換していたと考えるのが妥当であろう。

 チャーチル前英国首相が訪米して、ウェストミンスター大学で、ソ連の共産主義拡張に対して牽制の演説、いわゆる「鉄のカーテン」を唱えたのは1946年3月5日であった。中国では、日本の敗戦後から蒋介石・国民党と共産党の間で内戦が勃発。1946年1月10日、米国仲介で一旦停戦が成立したが、3月、蒋介石が停戦協定を無視して共産党攻撃を開始、内線再開して展望が見られず、1947年1月には米国は手を引いた。内戦は全国土に拡大した。朝鮮半島では、1946年2月14日、米国が李承晩を担いで大韓民国代表民主議院を組織した。直前2月8日、北側で金日成が臨時人民委員会を組織して着々国作りを進めていた。

 つまり、反共を国是とする米国にとって、米ソ対立は、米国世界戦略の最大の枠組みになっていた。日本を反共防波堤に育て上げるためには、なんといっても明確に反共を掲げている吉田首相をはじめとする保守政党の基盤を固めるしかない。いわば2.1ゼネストは反共という地雷を踏んだわけである。

 何よりも、政党や労働組合の指導者たちに欠落していたのは、「どこへ行こうとするのか」という問題認識ではなかったか。敗戦後労働運動は出発したのだけれど、行先を決めないままに走り出した。アクセルを踏めばふむほど不協和音が高まったのではなかっただろうか。覇権国米国の世界戦略を分析・研究して労働組合の戦略を立てるというほど、活動家が成熟していたとは考えにくい。また、戦後の組合における反共意識はここから始まっている。