筆者 新妻健治(にいづま・けんじ)
―ある政治学者から、米国において暴走する資本に抗い、それを規制・管理するためには、米国労働組合が、社会運動ユニオニズムにより、広範な労働者を階級的視点でまとめあげ、政治的力とすることが、唯一の可能性だと考えるという提起をされた。
私は、社会運動ユニオニズムという路線は、日本の労働組合の再生にも有効であると返答した。しかし、階級的視点による行為主体の形成は、労働者に限ることなく、資本主義を乗り超えようとする「資本主義に対する主体的な構え」という観点で為されるべきではないか。そして、これを新たな階級として措定し、社会変革の大きな力にしていくという、著者の提起と学んできたことを考え併せた、私の着想を伝えた。
このことにおいて、労働組合は、社会運動ユニオニズムの路線を選択し、この階級形成の重要な役割を担う存在となり、社会において触媒機能ないし媒介機能を発揮することを戦略とし、保有する運動資源を、そこに投下するということを考えてみた。
はじめに
ある政治学者(以下、著者)のご厚意で、研究誌への掲載前の論文をメールでいただいた。その表題は、「ストライキと労働組合再生の道―アメリカを事例として」(*1)というものだ。
〈論文の概要〉
米国の労働組合は、組合員の経済的利益を中心とし、社会的政治的改革とは一線を画するというビジネス・ユニオニズム(*2)に偏向してきた。そして、その組合員構成は、主に製造業に従事する白人労働者中心主義である。また、経営側の強力な反労働組合主義や、制度に組み込まれた反組合主義に、その力を抑制されてきた。
近年の米国労働組合は、産業構造変化、移民増加や、人びとの価値観の変化等、大きな社会変容や、それに係る新たな社会運動にも対応できぬまま、グローバル化する資本の攻勢に対抗できず、衰微の一途をたどっている。
しかし、この3~4年、労働組合結成のための組合代表申請およびストライキが急増しているという。その背景にあるのは、社会運動ユニオニズムという潮流である。社会運動ユニオニズムとは、労働組合が、労働者の権利向上のみに留まらず、社会的な公正や平等など社会正義の実現に取り組む運動として展開される。そのために、労働組合が、これまでの枠を超えた労働者(移民、非正規、低賃金労働者等)や、社会運動の主体との連帯・連携を図るというものだ。
しかし、この運動の攻勢も、経営や制度の反組合主義による圧力や、組織労働内部の分裂により停滞を余儀なくされている。このようななか、著者は、この社会運動ユニオニズムの潮流を、一過性のものとしないために、階級的視点により、労働者を文化・産業・人種の多様性を超えた広範な存在にまとめ、それを政治に動員することが、資本の自由な収奪を規制・管理する唯一の可能性ではないかと提起した。
〈私の応答〉
著者は、メールの中で、「資本主義の膨張拡大のタガが外れてしまった現在の状況において、改めてタガをはめるためには、やはり労働組合の再編と、その政治的力の拡大しかない。(雑感と断ったうえで)このことは、昨今の時流の中では笑われるでしょうが、ほかに道はないように思う。」と、伝えてきた。私から著者へ、以下の応答をした。
米国とは社会情況の違いや大きな程度の差はあるものの、資本主義経済社会として類似の社会課題を抱える日本において、また、組合員の関心の低下や参加の低迷および産業個々の利益や当該の労使の利益に拘泥し、停滞・衰微する日本の労働組合が、社会運動ユニオニズムという路線を選択することは、その再生にとって有効なものになる。
また、著者の提起は、人類社会の普遍性に向けて立ち上がる螺旋状の歴史的時間で定位すれば、過去に資本主義を乗り超えようとした労働組合が、資本主義をもう一度乗り超えることに挑戦しなければならない局面にあるという意味で、最先端を標榜しようとするものであり、その意味で、誰も笑うことはできないと伝えた。
そのうえで、階級的視点をもってまとめ上げるということは、広範ではあっても、労働者に限るのではなく、「資本主義社会に対する主体的な構え」(*3)という観点での行為主体の形成として為されるべきではないかと提起した。
階級形成から社会変革へ
著者が、「昨今の時流の中では笑われる…」と自嘲気味に述べたのは、歴史的に過去のものとして扱われる「資本家/労働者」という階級概念を、あらためて持ち出したところにあるのだろう。
しかし、社会主義革命の歴史的成否やその問題は別として、この概念が中核となり、人びとを社会変革の行為主体として連帯させる力になったことは間違いない。それがあって、資本と労働の妥協が成立し、福祉国家が建設され、労働者の危機を救った。しかしそれは、同時に資本主義の危機を救い、その延命を許容したことでもあったのだが。
そして現在、その延命された資本主義が加速し、避けがたい危機を人類社会にもたらしつつあるのだから、誰もそれを笑うことはできない。
階級とは、社会的条件や経済構造のなかで形成される範疇であり、その社会が創り上げるものである。ゆえに、この条件が変われば変動する偶有的なものである。著者も、論文の中で、「階級とはあらかじめ存在するものではなく、社会的公正や平等を求める行為行動のなかで生まれ、形成されるものだ。」と、指摘している。
著者の問題提起と「資本主義社会に対する主体的な構え」という示唆から、私が着想し著者に伝えたのは、「資本家階級/労働者階級」という旧来の経済的立場が曖昧となり、それらが錯綜する現代の資本主義経済社会だからだ。ゆえに、新たな階級を措定して形成し、次代に向かう社会変革の大きな力にしていくということだ。
ここで言う階級的視点とは、社会や経済構造のなかで、人びとが、どのように社会的な影響を及ぼす存在であるかということともに、その立場が人類社会の普遍的な目的に対し、どのような役割を果たし得るか、また、その役割を担っている存在であるかを認識するところに所在する。労働組合が展開する社会運動ユニオニズムが、このようなことを担えるのではないだろうかと考えたのだ。
労働組合の役割と機能
この着想に基づいて、労働組合が果たすべき役割と発揮すべき機能を考えてみた。
労働組合の役割は、この新たな階級という行為主体形成を担う重要な存在となることだ。それは、労働組合が、社会運動ユニオニズムという路線を選択し、資本主義社会が抱える社会課題を、資本主義を乗り超えるという方向で、解決に取り組む多様な主体と、戦略的に連帯・連携を図って多くの契機を創造することで、その役割を果たすのだ。
そしてこの取り組みにおいて、労働組合が発揮すべき機能とは、この取り組みに参画する組合員と多様な主体に参画する人びとの、階級的視点で意識認識の醸成という相互変化をもたす触媒機能であるとともに、そのような実践を踏まえての多様な主体同志をつなぎ、連帯・連携を促すという媒介になることではないだろうか。
階級意識の醸成とは、人びとの共通体験や、その経験を踏まえた深い対話や、そのことについての深い学びから成される。労働組合が、組合員の参画を得て、多様な主体との連帯・連携という契機を戦略的に創造し、数多く重ねることで、資本主義を擁護し、資本主義に生きる人びととは根本的に相違する価値観や行動様式、社会的経験や人的関係資本を有する人びとを見出し、つながりを生み出していく。それによって、より広範で有効な行為主体として新たな階級を措定し形成することに、結び付くのではないかと考えた。
そして、このような取り組みに、労働組合は、停滞衰微しているという意味で死蔵する莫大な運動資源(人的資源-組合員・役員、経済的資源、無形資産、社会的関係等)を投下していくのだ。
さいごに
このような取り組みが成立するためには、いくつもの前提条件が検討され、実践されなければならない。とりわけ、労働組合自らが、どのような存在として在るべきかを自覚し、明確に打ち出すことが求められる。
著者からの刺激を受けて、これまで学んできたことと考え併せて論考としてみたのだが、中身は限りなく心許ない。しかし、私はこういうことを自重しない。考えたことを、なんとか論考という形にすることで、求めるものへの階段が踏み上がれると確信するからである。
【参考文献・注釈】
*1 「ストライキと労働組合再生の道―アメリカを事例として」新川敏光 日本労働研究雑誌NO.778、May 2025
*2 ビジネス・ユニオニズムとは、労働組合とその運動の目的は、経済的領域において労働者の直接的な利益や権利を実現するものとし、社会的政治的要求には与しない。また、それは、理想主義的なものを排し、ヴォランタリズム(経験主義・現実主義)という路線で展開される。また、米国では、製造業に従事する白人労働者を中心に組織され、労働者全体を包含するものではなかった。
*3 「資本主義の<その先>へ」大澤真幸 筑摩書房、2023年
資本主義社会は、身分社会を超えて、誰もが自由で、何にでもなり得る社会として誕生する。資本主義とは、経験可能領域の普遍化により、つまり、旧領域と新たな領域の差によって利潤を生み出し蓄積・増殖するという原理を持つ。ゆえに資本主義社会においては、この原理により、未来の経験可能領域へと普遍化する側に存する立場と、この未来の経験可能領域の中には居場所を与えられてはいない立場が生まれることになる。
よって、身分社会を廃し、何にでもなり得る資本主義社会において、一部が、この普遍化する側に存する立場としての階級を形成する。しかしそれは、そうでない存在を廃棄することで成り立つ。この、廃棄され側の存在は、この階級そのものを否定し、資本主義が措定する普遍性ではなく、人類を遍く包摂する真の普遍性を目指す存在として位置付けられる。これをもって、この存在は、「資本主義に対する主体的な構え」を表現するものであるとした。