筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
殺伐とした世間を眺めていると、しばしばチャップリン(1889~1977)を思い出す。大ファンというほどでもないし、彼の作品もたくさん見たわけではない。しかし、その印象の強烈さはいつまでも消えない。
世界中で愛された映画人として、チャップリンは古今東西もっとも輝いている。なぜ、彼が偉大な映画人なのか?
彼が描き、出演する主人公の風采は、お世辞にもパッとしない。アヒルが歩いているみたいである。そして、社会の最底辺で暮らす人である。
虐げられて侮辱されている弱い人だが、絶対に屈服しない。実は、しなやかで筋金入りの強さをもっている。
なんど転んでも立ち上がる。七転八起程度ではない。
世間に対してはまちがいなく疎い。ナンセンスなことばかり繰り返す。
『チャップリン自伝』には。赤ん坊を浴槽に入れて石鹸を一個いれると、赤ん坊は天才を引き出す、と書いている。これが、彼の笑いの核心だ。目前の些末なことから、想像(創造)の世界を縦横無尽に引き出す。おかれた境遇はみじめなものかもしれないが、自分の世界を作り出す意気だ。
平凡な人が、平凡な人たちに交じって、ただ平凡な人生を送る―というだけでは面白くない。平凡そのものを突き詰め展開すると非凡な光景が登場するという発想である。
悲劇が笑いの精神を刺激する。笑いは反抗精神である。これが、チャップリン作品を貫いている。
そして、彼は複雑な思考を展開していない。「単純なアプローチ」、それが効果的になるまで突き進む。
彼は、アメリカ人について次のような批評を残した。
「アメリカ人というのは、エネルギッシュな夢にとりつかれた楽天家であり、挫折を知らない冒険家である。いつも素早い大儲けを狙っている。成功しろ! 出世しろ! 裏をかけ! 現ナマ掴んで逃げろ! 商売を変えろ!」
彼は、そんな生き方は肯定できない。
トランプもあくどいが、チャップリンが指摘した典型的アメリカ人の演技をしているみたいでもある。ただし、トランプはチャップリンと出発点が違う。トランプは、大衆に軸足を置いているふりをしているだけだ。
チャップリンは、虐げられた人々が、勝利するために、闘い続けた。
「歴史は不正と暴力の記録である」ことに7歳で気づいた。弱い人たちとともに不退転の声を上げ続けたと、わたしは思う。