筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
ヴィクトール・E・フランクル(週刊RO通信no.1613)が、ナチの強制収容所にいた体験で、次のような話も残した。
「人間は、なんらかの定型に嵌められやすいが、非定型的であろうとする人はいる。ナチ親衛隊員の収容所長が、(内密に)ポケットマネーで薬剤を被収容者に与えていた。ゲシュタポの高級官吏が、毎晩家族に収容所の悲惨を話して涙にくれていた。一方、被収容者が仲間を次々に痛めつけていた」。
道徳の意味において、種族などは存在しない。あるのは、人間としてまともか、まともでないかである」。
朝日新聞(5/5朝刊)に、イスラエルの公立高校歴史教師のメイール・バルヒン(65歳)が、パレスチナの共存をフェイスブックで訴えたら、テロ行為の支持を含む不適切な発言は大逆罪を犯す意図があるとして教職を解雇され、逮捕された。幸い、裁判所はテロ行為の支持を表明していないとして、解雇無効の判決を出した。彼は復職を果たしたが、多数の生徒たちに抗議されている。
徹底的に教育現場でも反パレスチナを叩き込んでいる。にもかかわらず、バルヒンのように平和共存、停戦を訴え、公然とジェノサイド批判をする人がいる。
アメリカは、善の勢力を標榜してベトナム戦争(1960~75)を戦った。民族解放を求めるベトナムの人々を侵略者扱いした。敗けるはずのない弱小国相手に、膨大な物量戦術で、枯葉剤をはじめとする残酷な戦争を展開したが、敗戦国となった。
正義の戦争だといわれて派遣された兵士たちは、深刻な精神的障害を避けられなかった。世界中で、国内でもベトナム反戦運動が盛り上がった。
ところが、レーガン大統領(1981~1989)は、帰還兵を愛国のヒーローとして持ち上げ、反戦運動を矮小化し、やがて「正義の戦争」であったとするデマ宣伝を展開した。一度は、間違った戦争だったと認めたものを、正反対に正義の戦争だと定義する。
政府の宣伝は、常に「正しい」のであって、国民にそれを洗脳するわけだ。イスラエルも同じである。政治家は、官僚制の上に国家を運営する。堕落すれば、善が悪になり、悪が善だとされる。
外から、少し冷静に事態を眺めれば、不正義の分だけ宣伝に力を入れて取り繕おうとする。気のいい人々は宣伝の波に押しまくられる。
政治家や官僚は、場当たり的、ご都合主義、日和見主義に傾きやすい。なぜなら、権力を自分たちに都合よく行使したいからだ。強大な宣伝力で権力の正当性を主張する。その結果は、手段が目的化し、政治の道徳たる矜持がどこかへ放り出される。
だから、一人の市民がまともであろうとすることはきわめて困難を伴う。にもかかわらず、少数派であることに立ち向かう人たちが存在する。
民主主義それ自体は、善悪を区別しない。問われるのは、各人が、まともを貫こうとする心意気を堅持しうるかどうかにある。