週刊RO通信

憲法とのお付き合い

NO.1612

 日本国憲法は、日本国の国民を結びつける基本的な掟であるから、これを国民一人ひとりが尊重するべきことは当たり前である。しかし、これはきわめつき理屈であって、誰もが日常的に憲法を意識しているとは思えない。

 いわば、憲法は水や空気と似たところがある。なければ困るが、時々刻々憲法を意識していなければならない状態というのは、政治や世の中に厄介な問題があるからだろう。空気や水と同じくありがたみを感じずにいられるのは結構なことでもある。ただし、無関心は災厄を招きかねない。

 わたしが憲法を意識したのはいつだったか。高校1年生のとき安保反対闘争が盛り上がったが、田舎は静かであるし、典型的ノンポリの自分は格別意識した記憶がない。別世界を生きてしまった。

 多少なりとも関心が芽生えたのは、社会人になって、組合の労働講座で労働三法や労働協約、関連して憲法の話を聞いた時である。組合機関紙に掲載される活動家諸氏の論文からも影響をうけたと思う。

 1968年1月、原子力空母エンタープライズ寄港反対運動で組合から派遣されて佐世保へ行った。学生たちは派手に警官隊と衝突を繰り返した。労働者5万人の行動は、デモと集会を整然と展開して解散した。形だけ抗議したというだけで、格別学ぶこともないのが釈然としなかった。

 1969年12月27日の衆議院議員選挙で、当選の可能性が低いと予想されていた土井たか子を初当選させた。同志社大学講師というだけでまったくお付き合いがなかったが、憲法を政治に生かそうとする情熱を強く感じた。

 1970年代半ば、田畑忍教授(1902~1994)『憲法学講義』を借りた。土井氏が深く傾倒している恩師であることは知っていたが、たまたま入手するまで勉強したことはなかった。初めて憲法学の本をまともに読んだ。

 組合本部で活動するようになり、以前に比べると憲法を意識するようになった。ただし、在職8年間、活動の担当範囲が広くいずれも面白過ぎて読書するような生活とは無縁になった。もったいなかった。

 1982年10月独立、組合活動の応援団を自任して講演研修活動に入った。全国を走り回る。新幹線の中でも原稿書きせねばならず、読書と疎遠な生活が続いた。本を読もうと思い立ったのは20世紀のおしまいで、ようやく自学自習するようになった。なんとしても立ち上がりが遅い。

 勉強の仕方を知らないので、古典のラインナップが整っている(と思う)岩波文庫中心主義にした。神田古書街で、関心のある本を片っ端から集めた。古本と思っていたが、岩波文庫は価格があまり下がらない。20年くらいかけて、読んだ本同士(の内容)が、なんとなくつながるようになった。

 文庫中心なのだが、偶然、岩波新書の古本が目に止まった。『憲法を生かすもの』『憲法読本』(憲法問題研究会)、『憲法講話』(宮澤俊義)である。1961年から1967年の出版である。一冊百円の安売りだった。

 憲法問題調査会は1958年6月8日創立された。1957年、岸信介が首相になり憲法調査会を設置したが、その意図に危惧を抱いた大内兵衛・宮沢俊義・我妻栄・清宮四郎・茅誠司・恒藤恭・矢内原忠雄・湯川秀樹が呼びかけ人で発足した。参加呼びかけの冒頭は次の通りである。

 ――おびただしい貴重な人命の喪失と、惨憺たる焼土を犠牲として生まれた日本国憲法が、平和・民主・人権の三原則を掲げたとき、終戦後の虚脱状態にあった国民は、この憲法をもって新生日本の基礎とすることに、新しい感激と覚悟を抱いたことは事実であります。――そして、純粋な学問的な会としての研究と、啓蒙的な活動をおこなうことを掲げた。

 日本国憲法は「敗戦の子」である。敗戦後の廃墟と混乱のなかから生まれた。これらの本は、憲法を身近なものにするべく、学者たちが熱い思いを抱いて立ち上がったのがひしひしと伝わる。よいものは時代を超えて伝わる。

 敗戦までの国民は権力によって抑圧されていた。その状況で果敢に闘わなか去ったのも事実である。無知・怯懦・迎合・追従・無責任が支配していたからでもある。戦後は、その悔しい現実から立ち上がった。日本国憲法の肝心要は、主権在民である。自分が主権者たる確信を発揮することによって先人たちの苦心を発展させねばならない。これらの本のメッセージである。